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B.island(新潟県立万代島美術館ニュース)第20号-16「板谷波山《青磁竹節香炉》のご紹介 その2」

板谷波山の香炉について、「その2」です(「その1」はこちらより https://banbi.pref.niigata.lg.jp/topics/b-island20-3/)。これといった収穫がなく続きが書けずにいたのですが、現在、長岡の県立近代美術館で作品が展示中です。そのお知らせを兼ねて、波山と長岡との関わりについてご紹介することにいたします。

板谷波山《青磁竹節香炉》大正末~昭和初期 ※現在、長岡の県立近代美術館コレクション展で展示中。3月21日まで。

 

令和元年度に収蔵となった板谷波山の《青磁竹節香炉》は、新潟県長岡市の個人宅で所蔵されていた作品です。波山は存命中から高名だったため、全国どこでも蒐集の対象とされていて不思議はありません。しかし、波山と長岡には、他にはない強い結びつきがあったことをご存じでしょうか。

 

大正6年に日本美術協会展で最高賞を受賞した後、波山は公募展への出品を控え、「波山会」とよばれる後援会主催の頒布会(今でいう新作個展)を主な発表の場としました。波山の作風が大きく変化した大正後半から昭和初期の動向を知る上で、この会はとても重要な役割を果たしたと思われるのですが、その詳細はいまだによくわかっていません。これまでに出版された波山関連書籍の年譜には、まず大正3年に東京で、その他の地域では唯一、大正7年頃に長岡で発足したことが記されているのみ。わずかに残る会の資料は、私の知る限りでは下記の3種です。

 

①「第三回波山会作品集」/開催地不明/開催年不明(大正8年と推定)/図版あり

②頒布会目録/長岡開催/大正10年10月/図版なし

③「第二回長岡波山会分頒作品目録」/長岡開催/開催年不明/図版なし

 

※①②については長年の波山研究で知られる荒川正明氏の論文に掲載があり、開催時期や内容について考察がされています。  (荒川正明「板谷波山における大正時代中期の作風展開」『出光美術館研究紀要第十一号』2005年)

※上記目録の他、長岡の常盤楼で開かれた波山会の写真がこれまでに紹介されています。

 

館の収蔵となった作品の特徴は、まず「青磁」であること、次に、胴に竹の節のような突起が複数本ぐるりと巡らされる「竹節型」の形をしていること、そして「貫入」とよばれるひび割れ状の文様があることです。

 

大正8年と推定される資料①では青磁の出品はあるものの、いずれも貫入は入っておらず、題に「竹節」のつくものもありません。この年にはまだ類似作品は制作されていなかったとみてよいでしょう。その2年後、大正10年開催の資料②では出品数の半数弱が青磁で占められ、しかもそのほとんどが貫入の入った作品です。その中に「竹節香炉」の題も見つかりました。長岡開催であることから、もしかすると、収蔵品はこの頒布会で取引された作品なのでは!と思いたいところですが、図版も無く、断定するには材料が足りないのが残念です。

 

資料③には「第二回」とあり、資料②に続く長岡波山会の目録と思われますが、開催年が不明です。他の出品作品の題や技法から推測すると、大正末~昭和初期の間の開催ではないかと考えているところです。青磁の割合は資料①②に比べてぐっと下がりますが、貫入の入った竹節香炉の出品が1点ありました。しかし収蔵品はその器形や印、箱書き等から、類似作の中でもごく早い段階の作品と思われます。長岡での波山会出品作だとしたら、この時ではなく、資料②の大正10年の作でしょう。また、この資料③についてはこれまで紹介がないようですので、回を改めて詳しい内容をお伝えします。

 

さて、波山と長岡とのつながりはまだあります。長岡は茶道の盛んな地として知られ、なかでも隆盛を誇っていたのが宗徧(そうへん)流でした。大正12年、その家元である八世山田宗有(そうゆう)の襲名披露茶会で使用する茶器が波山に発注され、天目茶碗や茶入が納められました。同じく宗徧流の茶人・山岸宗住(会水)が昭和初期に東京に転居した際、自宅に窯を築き、波山に陶芸を習ったことも伝えられています。個人的な交流が生まれるほど、波山と長岡茶人達が深く関わっていたことがうかがわれます。他にも、昭和初期には長岡の青年実業家達による美術愛好会「風羅会(ふうらかい)」で鋳金の北原千鹿(せんろく)、漆芸の堆朱揚成(ついしゅ・ようぜい)らとともに波山作品の取り扱いがあったことが知られています。茶人のみならず、当時の一流芸術家達を受け入れる文化的な土壌と、十分な財力が長岡にはあったということでしょう。

 

大正後期から昭和初期、波山の作風が変わったのと同時に、その器形にも大きな変化がありました。それまで制作の中心であった鑑賞用陶磁に代わり、茶道具の占める割合が急速に増えたのです。大正に入り、明治維新によって一時衰退した茶道が復権したこと、中国古陶磁研究の気運が急速に高まったことがその理由として挙げられますが、それに加えて、長岡の茶人や蒐集家との交流が波山に直接の影響を及ぼしたのではないかという指摘もされています。

 

近現代の日本陶芸史上、トップクラスの作家である板谷波山。長岡という地が彼とこれほど深く関わっていたことは、一般にはあまり知られていないのではないのでしょうか。それにしても、長岡の地で発足した経緯はどのようなもので、メンバーは誰だったのか。長岡での波山会はいつ、どこで、何回開かれ、どのような作品が出品されていたのか。明らかになれば、今後の波山研究が大きく進展します。新たな事実や資料が発見されることを期待しつつ、引き続き調べていきたいと考えています。(主任学芸員 池田珠緒)