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B.island(新潟県立万代島美術館ニュース)第20号-15 「休館中の仕事―亀倉雄策関連資料の整理・調査」

「コレクター福富太郎の眼」展閉幕から「サンリオ展」の開幕まで、万代島美術館は少し長めのお休みをいただいておりました。「休館中の美術館で学芸員は何をしているのだろう」と思われた方もいるかもしれません。この休館中も学芸員はそれぞれの業務に追われておりました。次回展はもちろんのこと、その先々に予定されている展覧会の準備がありますし、その合間を縫って、所蔵品や作家の調査研究、論文の執筆や講座準備などの業務も進めておかなくてはなりません。

そこで今回は、この休館中に私が取り組んでいた仕事をご紹介したいと思います。普段は美術館の受付でお客様をお迎えしているスタッフの力を借りて進めていた「亀倉雄策関連資料の整理・調査」についてです。

 

「亀倉雄策関連資料」とは

 

亀倉雄策(1915-1997 年、新潟県燕市出身)は、東京オリンピック(1964 年)のマークやポスター、グッドデザインやNTT のマークなど、数々の傑作を世に送り出し、戦後日本のデザイン界に大きな足跡を残したグラフィックデザイナーです。

新潟県立近代美術館では、その前身である新潟県美術博物館の時代から、作家本人や亀倉雄策資料室より、亀倉の作品や制作に関わる資料を数度にわたり受贈してきました。ポスター約800件の他、装幀やパッケージ、また版下など制作過程の資料や、当時の記録写真、掲載記事のスクラップなど、作家本人のみならず、日本のデザイン史に関わる資料が多数存在しています。

資料数が膨大であるため、その整理・リスト化は近代美術館・万代島美術館の両館職員やボランティアスタッフの手により2007年度から徐々に進められてきました。そして、その成果の一部は生誕100年を記念した2つの展覧会(「グラフィックデザイナー 亀倉雄策展」[万代島美術館]、「亀倉雄策とクリエイション」[近代美術館]、いずれも2015年度)やコレクション展示を通じて皆さんにご紹介してきました。しかし、未整理の資料はまだまだ残っています。リスト化の作業は、少ないマンパワーを駆使しながら現在まで断続的に行われています。

この休館中に万代島美術館で行ったのは、写真と手紙の一部のリスト化です。資料1点1点に固有の番号を振り、スキャニングして画像データを作成し、リストに資料名などの情報を入力して行きます。簡単なようですが、そもそもこれらの資料は収蔵時から必ずしも整然とした状態になく、形状やサイズ、痛み具合など状態も異なるため、機械的に作業を進めることができません。写真も、果たしてそれがいつ撮られたのか、写っているのが誰なのかなどの情報が添えられていないことがほとんどですので、亀倉雄策についての情報がある程度頭に入っていなければ、資料名をリストに記入することすら困難です。

手紙をスキャナで読み込む作業の様子

 

手紙を手がかりに

 

しかし、長年この作業を続けていると、複数の資料から得られた断片的な情報が結びつき、新たな発見につながることがあります。今回の作業でもそんな出来事がありました。手紙を整理している時のことです。

亀倉が海外に宛てた1通の手紙の写しが目にとまりました。そこには英語でこんなことが書かれていました。

「The lithograph of fish that you have kindly given me is now on the front wall of my room.(あなたが私にくださった魚のリトグラフは、今、私の部屋の正面の壁にかかっています。)」

手紙の日付は1955年12月14日。送り先はハンス・フィッシャー(1909-1958)。『こねこのぴっち』や『長ぐつをはいたねこ』などの絵本でも著名なスイスのアーティストです。

この手紙を読んで思い浮かんだことがありました。新潟県立近代美術館には、先ほどご紹介した「亀倉雄策関連資料」とは別に、亀倉雄策が生前にコレクションしていた美術品や工芸品、民芸品のコレクション約300点が収蔵されています。この中に、作者名、タイトルともに不明のままになっている“魚の絵”が1点ある事を思い出したのです。この作品の余白部分には、送り主から亀倉に宛てたであろうメッセージ(「to Yusaku Kamekura in memory of your visit.」と「1955」の文字が手書きで記されています。作家のものと思われるサインもあるのですが、判読できないままでした。つまり、作家本人が亀倉にプレゼントしたものであろうことは推測できるにせよ、肝心の作家を特定することができずにいたのです。

作者不明だった"魚の絵”

 

手紙に書かれていた「魚のリトグラフ」がこの作品であるなら、作者はハンス・フィッシャー、という事になります。実は亀倉は1955年の前年、つまり1954年に、初めてアメリカ、フランス、イタリア、スイスを巡り、サヴィニャック、マリノ・マリーニなど、著名なデザイナーやアーティストを訪問しています。この外遊時にスイスのハンス・フィッシャーを訪ねていたとすれば、余白に記されたメッセージ(「亀倉雄策さんへ。あなたの訪問を記念して」)というメッセージについても理解ができます。ただし、「魚のリトグラフ」という文字情報だけでは、この手紙が言及している作品が当館の“魚の絵”と同じものなのかどうかを確定することはできません。

そうこうしながら、次に整理に取りかかった写真資料の中に、さらなる手がかりを発見しました。先ほど言及した外遊先で亀倉自身が撮影したと思われる複数の写真から、画家のアトリエらしき室内に、当館が所蔵する作者不明の“魚の絵”に酷似した作品が一部写りこんでいるのを発見したのです。アトリエ写真なのですから、写っている人物は作家本人でしょう。そしてこの人物がハンス・フィッシャー本人であれば、すべてつながることになります。

亀倉が1954年に撮影したと思われる写真。背後の壁に貼られた作品に注目。

当館所蔵の資料だけでは裏付けがまだ不十分です。ハンス・フィッシャーについて詳しい他館の学芸員の方に問い合わせ、写真に写る人物がハンス・フィッシャーその人であること、当館所蔵の“魚の絵”に施された判読不能なサインがフィッシャーのサインで間違いないだろうことを確かめられました。また、フィッシャーと亀倉との間で交わされた手紙が別に4通見つかったこと、亀倉が1955年にフィッシャーについて寄稿した雑誌記事[※1]を入手できたことで、作品が亀倉の手元にわたった経緯や、その後のやりとりもわかってきました。ざっとまとめると以下のとおりです。

 

・亀倉がフィッシャーのアトリエを訪ねたのは1954年12月。スイス入国時に、知人を介して面会を申し込んだ。

・すでに著名な作家だったフィッシャーは、多忙な中、時間を割いて亀倉を迎え入れた。短い時間ではあったが、二人はすっかり打ち解けることができた。

・亀倉は、アトリエの壁にとめてあった「すばらしい魚の石版画の原稿」が気に入り、もらえないか、とフィッシャーに頼んだ。フィッシャーは、できあがったら亀倉に送る、と快く約束をした。またこの作品とは別に、エッチング作品を亀倉に贈った。

・日本に帰国後、亀倉は、お礼の品として、訪問時に撮影した写真と「鯉のぼり」をフィッシャーに送った。その後、約束通りフィッシャーは「魚のリトグラフ」を亀倉に送った[※2]。

・この「魚のリトグラフ」と同じ作品が、1955年に東京で開催された「第3回日本国際美術展」に出品された[※3]。

 

手紙、写真、雑誌記事など、異なる資料から得られた情報が結びついたことで、”魚の絵“の作者が判明しただけでなく、ハンス・フィッシャーと亀倉雄策の交流の様子を詳しく知ることができたのです。

膨大な資料の整理。専属のスタッフも予算もない中で進める作業は、言うまでもなく根気が必要な地味な仕事ではありますが、時に、ご褒美のように、新しい発見をもたらしてくれることがあります。学芸員という仕事の楽しさと責任とを感じる時でもあります。今後も調査の成果は、コレクション展示を中心に皆さまにご披露して参りたいと思います。

 

(専門学芸員 今井有)

※1 「ハンス・フィッシャー」『広告美術』第11号、1955年4月 1-2頁

※2 「魚のリトグラフ」が届いた後、亀倉はお礼の品としてフィッシャーに日本の「櫛」を送り、その後さらにフィッシャーの求めに応じて、もう一度「鯉のぼり」を送っている。

※3 フィッシャーから亀倉に宛てた手紙(1955年3月25日付け)に、亀倉に送る作品と同じものが、日本国際美術展(1995年5月20日~6月12日、東京都美術館で開催)に出品される、との記載がある。『日本美術年鑑 昭和31年版』の記載および「第三回日本国際美術展特集」(『美術手帖』1955年7月号)を参照すると、同展に出品された3点のフィッシャー作品のうち、《白い魚》というタイトルの作品がこれに該当することが判った。一方で同作品が《Poisson des profondeurs(深海魚)》というタイトルでも知られていることが別資料から判明しており、作品名についてはさらに調査が必要である。

 

本記事を執筆するにあたり、小さな絵本美術館・武井利喜館長、伊丹市立美術館・岡本梓学芸員に貴重な資料と情報を頂戴いたしました。心より感謝申し上げます。