コレクション

当館は、新潟県立近代美術館(長岡市)の分館であり、所蔵品は両館の共有となっています。
近代美術館の前身である新潟県美術博物館の時代から収蔵されてきた作品の数は、6,000点を越えました。万代島美術館の開館以降は、「現代の美術」の収集にも力を注いでいます。

ここでは、新潟県立近代美術館・万代島美術館のコレクションから、「現代の美術」を代表する主な作品をご紹介します。

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作品リスト

森村泰昌 「Death of Father」 1991年

森村泰昌 「Death of Father」の画像 作者は、1985年にゴッホの自画像の複製とセルフポートレイトを合成した作品を発表、以降、自ら様々な古今東西の名画の中の登場人物や静物に扮して絵画の中に入り込んできた。『名画シリーズ』と呼ばれるこれらの作品は、国内外で最も評価の高いシリーズであり、本作品もその一つである。本作は、作者が1990年に開催した個展「美術史の娘」に対して、その対概念である「父の死」と位置づけた作品であり、「名画シリーズ」の中でも重要である。絵画として描かれている主題に単純に作者と入れ替わっているだけではなく、背景やキャラクターも含めて別な主題に置き換えている。その結果、極端なデフォルメによりグロテスクさも感じられるものの、対象への愛情をもってオリジナル作品を解体し再構築した作品となっている。

福田美蘭 「ブッシュ大統領に話しかけるキリスト」 2002年

福田美蘭 「ブッシュ大統領に話しかけるキリスト」の画像 作者は最年少で安井賞を受賞して以来、「絵画」というシステムに対して批評的に作品化し提示してきた。それは決して表面的なものではなく、「絵画」とは何かということを突き詰め、そこから付随して表面化してきた問題を作品化することによりあらためて「絵画」を再検証するという行為である。作者はその行為をシニカルで批判的な態度で行うのではなく、現在の「絵画」の可能性を肯定し、鮮やかに今日の絵画を提示しようとするところに個性がある。以前、世界的な動向として見られる社会的な問題を含むポリティカル・アートについて、自分自身としてはそれだけ逼迫した問題意識を持ち得ることは難しいと述べていたが、この作品は9.11のテロ事件から続く一連の圧倒的な現実に誘発され、初めて制作したポリティカル・アートである。

斉藤典彦 「Rites of Passage」 2000年

斉藤典彦 「Rites of Passage」の画像 作者はこれまでの日本画が用いてきた素材を用いつつも、伝統的に描かれてきた花鳥風の主題に依存せず、これまでとは異なる新たな表現を模索している画家の一人である。1995年の在外研修でイギリスに滞在しターナーなどを研究して帰国した後から、徐々に具体的なモティーフが描かれることが少なくなり、重層性や透明性を抱えた画面の「深み」を探求するような作品を制作している。本作は第27回創画会展に出品されたのち、第1回の東山魁夷記念日経日本画大賞展に出品され、入賞を得ている作品である。伝統的な日本画材である岩絵具の物質的な美しさへの信頼感を支えにしながらも、実験的な丁字型の形態を試み、重く黒い闇のような上部と、内側から発光しているかのようなやわらかく白い画面の下部が拮抗しつつも、上下の方向性を持つ緩やかな筆致によって有機的に結びつく構造を持っている。

野見山暁治 「いけにえ」 1990年

野見山暁治 「いけにえ」 の画像 野見山は戦後、一貫して絵画を追究し、常に新鮮なイメージを提供し続けてきた。日本の現代洋画を語る上でも、また1945年以降の日本の美術を語る上でも重要な作家である。郷里筑豊の荒涼とした炭坑風景を出発点に制作をはじめた野見山は、1960年頃から、人物や風景を基盤にしながらもその形をゆがめ、具象と非具象の間を行き来するかのような作風へと移行、絵画の未来が危ぶまれた時代にもその制作姿勢を変えず、絵画の可能性を後進に示してきた。本作は1996年に練馬区立美術館で開催された大規模な回顧展の出品作である。奔放な線の重なりによって生き物のようにうごめく画面が、「いけにえ」というタイトルから発せられる死のイメージと相まって、観る者に様々な思いを喚起させる。のびやかでありながら緊張感を失うことのない近年の作風をよく示した作品である。

中村一美 「死を悼みて濡れた紫の水瀬に立つ者 V」 2003年

中村一美 「死を悼みて濡れた紫の水瀬に立つ者 V」の画像 作者は、戦後アメリカで隆盛した抽象表現主義を批判的に継承し、若い時期から理論的考察を加えつつ、その支柱に基づいて方向性の違う種類の絵画を平行して制作し続けている創作力の旺盛な画家。近年回顧展が開かれるなど、注目の度合いがとみに高くなっている。作者独自のモティーフであるC字形、Y字形の展開とは別に、建物の崩壊をイメージした絵画の制作中に阪神大震災が起こるなどの偶然から、最近では特に個人的な思いだけではなく、社会的に意味を持つ絵画を模索する傾向があらたに生まれてきている。題名が示すように、死者追悼の意が作品に込められているが、その底には単に身近な死のみならず、世界の惨事の犠牲者への思いにも同調するものである。本作品は、激しい筆致や鮮明な色彩といった要素が単に感覚的に配されているだけではなく、装飾的な記号的モティーフを加えつつ理論的に統括し画面を構成しているところが魅力である。

菅原健彦 「円形のジャングルジム」 1993年

菅原健彦 「円形のジャングルジム」の画像 作者は一貫して日本画的方法論による具象絵画にこだわり、身の回りの風景、特に金属による構築物に溢れた都市を好んで描いている。本作もその流れにある。都市の中に点在する、あたかも新たな自然のように点在する構築物、ここでは題名の通り「円形のジャングルジム」を、そのイメージを長い時間をかけて積み重ねて描きこみ、さらに表現主義的なダイナミズムを感じさせる大画面の作品として結実している。ジャングルジムのモティーフは作者によりたびたび描かれ、同一構成の作品も数多く見ることができる。中でも本作が最も古くかつ大規模なもので、個展で発表された際の高い評価により第1回VOCA賞出品に繋がっている。また、作者は1990年代後半より都市のモティーフから自然の大気へと変貌しており、本作は前半における代表作である。

宮崎進 「黄色い大地」 2000年

宮崎進 「黄色い大地」の画像 宮崎は、第二次大戦後からほぼ半世紀に渡り、様々に画風を変えながら旺盛な創作活動を展開してきた。戦後美術を語る上で欠かせない存在であり、近年開催された大規模な回顧展でも新しい展開を見せるなど現在も活躍がめざましい。戦後4年間にわたるシベリア抑留ののち、1950年代末から光風会・日展に作品を発表、60年代半ばの<旅芸人>シリーズ、70年代の裸婦像を経て、80年代から抽象性の強い作品を発表、近年は麻布などを張り付けたコラージュ作品へと発展している。その間、一貫して自らの戦争体験から導き出された自然と人間存在に対する深い洞察を制作の原点としてきた。この作品は、80年代以降の抽象化された作風を顕著に示すコラージュ作品である。作家が抑留中に画布として使ったという麻布が基底材となっており、物質としての存在感だけでなく材質を超えた不思議な生命感を醸し出している。宮崎の制作の根元に位置するシベリア抑留体験と直接的に結びつく要素をもつ作品である。

日高理恵子 「空との距離 II」 2002年

日高理恵子 「空との距離 II」の画像 作者は自宅の近所にある木の枝を見つめ描き続けることで、西洋的な科学的遠近法や空間的遠近法を排除し、自身の知覚を通じて感じられるその不安定な距離感を絵画空間として表現してきた。その結果、遠近法に支配されない心地良い空間を提示し「視覚」ではない「知覚」を絵画化することに成功している。本作もその延長線上に位置する作品であると同時に、そこに新たな視点として空と枝との距離感も取り入れられた作品であり、《樹を見上げて》、《樹との空間から》から続く集大成的な代表作として捉えられる。鑑賞者に不安定な居場所に対する居心地の悪さと併せて、重力から解放された自由な新鮮な体験を与える作品は、西洋美術の文脈を超越し、絵画の新展開を感じさせてくれるものである。

千住博 「WATERFALL」 2000年

千住博 「WATERFALL」の画像 作者は、作家活動を始めて間もなく海外に発表の場を求め、以来、日本の伝統的美意識を打ち出しつつ、世界に発信できる普遍的な表現法を探ってきた。日本画の現代美術における一つのあり方を示す作家として世界的に評価されている。《WATERFALL》は、流れ落ちる滝を画面一杯に描いた「ウォーター・フォール」シリーズの一点である。「数寄」をテーマに構成された1995年ヴェネチア・ビエンナーレ日本館では、建築家隈研吾による床に水をはった会場にこのシリーズの大作が展示された。同作品により、千住は東洋人として初めて絵画部門個人優秀賞を受賞している。画面の上から実際に流しおとされた絵の具や、スプレーガンで散らされた絵の具の飛沫などにより、水の勢いや冷たさ、響きわたる轟音までもが巧みに表現され、画面の大きさとあいまって、観る者を圧倒する。滝という日本の伝統的モチーフが、やはり日本画の伝統的素材である岩絵具によって描かれながら、日本の山水的なイメージを感じさせない、新感覚の作品となっている。

中野嘉之 「野火」 2000年

中野嘉之 「野火」の画像 2000年に高島屋で開催した個展には、他に琵琶湖を題材とした10点のシリーズ作品〈琵琶湖蕭水〉がある。《野火》は、作者がその琵琶湖周辺を取材する帰路に出会った光景で、滋賀県の近江八幡から彦根へ向かう途中だったという。闇の中を一本の道沿いに燃え上がる炎。あたりを紅く染め上げ、一瞬一瞬に表情を変える炎に美と神聖なる生命を見、心を突き動かされた作者の感動、そして畏敬の念とでもいうべきものが大画面の屏風に表出されている。作者は、この屏風という画面形式に1990年前後から取り組み始めているが、「スケールの大きな画面に向かうと、気持ちが高揚してくる。体力的にはハードだが、(大作は)気持ちが入りやすいし夢中になれる」という言葉にあるように、雄大な屏風による表現がよく見られる。

岡村桂三郎 「泉」 2003年

岡村桂三郎 「泉」の画像 作者は、1993年まで創画会に出品したが現在は無所属。個展、もしくはグループ展を中心に発表している。斉藤典彦、山本直彰らとグループ「META」を結成し、日本画におけるあらたな表現を探求するとともに、日本画というジャンルの定義や今後の展望を問う展覧会において数多く取り上げられている。本作品は、バーナーで焦がした杉板に下地を施し、木炭デッサンをした上で岩絵の具を塗り重ねている。屏風仕立てという日本画古来の形式を用いながらこれを逆に折ることにより、力強い空間性が生まれている。また獣のようなモティーフは、作家の初期作品から度々用いられてきたもので、畏敬の対象である自然や、生命の循環を象徴していると考えられる。

横山操 「TOKYO」 1968年

横山操 「TOKYO」の画像 この絵の描かれる4年前(1964年)に開催された東京オリンピックは、東海道新幹線の開通など大規模に交通網を整備するきっかけとなり、東京の街は開発による騒音と埃に包まれた。首都高速道路の建設もそのひとつで、横山は完成したばかりの道路をハイヤーで何時間も走り回って取材したという。その新生国際都市「TOKYO」を、東京タワーを中央に、眼下を密集したビルの群れがどこまでも広がる光景として描いている。そこには多くの人々が活動する生活と社会があるはずだが、画面には人影もなく、またその気配さえも感じられない。静まりかえった大都市が銀箔の広い空の下に広がる様は、空疎で孤独な印象を与える。無機的な無数のビルの中にひとり高々と聳える東京タワーが、あたかも人波に孤立する都会の人間像を象徴しているかのようである。同年(1968年)には、他に水墨による連作《越路十景》を発表するなど水墨画の新たな展開に挑む横山であったが、1971年には脳卒中で倒れ右半身不随となってしまう。その後、左手により制作を再開するが、1973年に再び倒れて帰らぬ人となった。《TOKYO》は、そんな横山の最後の大作だといえる。