学芸ノートB版 2023-1「開館20周年を振り返る① 開館準備時代 1」
新潟県立万代島美術館は2003年7月12日(土)に開館しましたから、現在開催中の「糸で描く物語」展の最終週に当たっている、7月12日の水曜日に満20歳を迎えます。
私はこの万代島美術館が産声をあげる3年前、2000年9月に近代美術館の主任学芸員でありながら、兼務として新潟県美術館館開設準備班勤務の内示を受けました。今でも覚えていますが、この年の春、私にとっては入魂の自主企画展である「生誕110年記念 広川松五郎と高村豊周展」を無事にやり終えたこともあり、夏休みは両親とともにロンドンを旅行中でした。ロンドンのホテルに滞在中、近代美術館から内示確認の連絡がかかってきたことに驚いた覚えがあります。以降、半年間、近代美術館と準備班の業務を行い、翌2001年春、県庁内の教育庁文化行政課の中に正式に新美術館開設準備室が発足し、私は兼務を解かれ、正式に準備室勤務となりました。
新潟県採用以前、私立美術館に勤めていた時代を含めると、すでに10年以上、美術館現場で働いていた私にとっては、県庁勤務というのは慣れないことばかりで、たいへんでしたが、準備室には行政経験の豊富な2人の職員も配置されており、いろいろなことを教えてもらい、行政的な部分は何とか乗り越えることができたというのが正直なところです。
さて、準備室にはいわゆる学芸的な業務を行う職員としては、管理職である準備室長を除くと、2001年に1名、翌2002年に1名が採用され、私を含め都合3名の学芸員がいました。そして、この2人の学芸員とは、私の人生において忘れられない経験をすることとなります。それは、一人は私と結婚し、そして、もう一人は、若くして他界しました。
他界した学芸員は高晟埈(こうそんじゅん)と言います。映画「キューポラのある街」で知られる埼玉県川口市の出身で(彼は自分の出身地を語る時、必ずこの映画を引き合いに出していました)、東京藝術大学を卒業後、新潟県に採用となりました。語学に堪能で7か国語位は自由に話せました。万代島美術館は基本構想、基本計画の中で環日本海の美術も紹介することが明示されていましたので、うってつけの人物だったと思います。とは言え、誰だっていいところも悪いところもあります。美術に関してはとても優秀でしたが、勝手に物事を進める悪戯っ子のような、ズルいところもありました。勝手にやり過ぎて、私を怒らせてしまうこともありましたが、それでも不思議と憎めない人物で、意外と馬があいました。
そんな彼の最大の欠点は無類の酒好きだったということでしょう。大学時代は飲みすぎて藝大内の校庭で次の日の授業まで寝ていたとか、健康診断でγ-GTPが400あったとか、お酒に関するエピソードは事欠きません。私も2002年に彼と韓国に調査に行った時、夕食の際、私が止めるのも聞かず、彼がへべれけになるほど飲みすぎて、ロシア語しかしゃべらなくなってしまったことがありました。何とか私がタクシーを呼び止めホテルに着いたものの、彼がタクシー内で寝てしまい、タクシーの運転手さんに手伝ってもらって彼を部屋まで運び込んだこともありました。しかし、彼の凄いところは、次の日、二日酔いでかなり辛いはずなのに調査に手を抜かなったことで、その成果は「民衆の鼓動 韓国美術のリアリズム1945-2005」(2007)に結実しました。日本ではほとんど知られていない、韓国における1945年の解放以降、様々な弾圧の中でも綿々と受け継がれてきたリアリズムの系譜を紹介したもので、国内6か所を巡回し、2007年の美連協カタログ論文賞も受賞するなど評価の高い展覧会となりました。
2003年4月1日に万代島美術館ができると、準備室から室長、行政職員1名、そして学芸員3人も万代島美術館に異動となり、行政職員1名、近代美術館から1名(現在の近代美術館・桐原館長)が着任し体制が確立、以降、万代島美術館が本格始動していくことになります。
さて、私は2005年に開催する所蔵品を生かした展覧会として「7人の新潟の写真家たち」を企画、それが縁で新潟出身の芸術写真のパイオニア、堺時雄の作品と資料を、ご遺族より一括寄贈して頂きました。その資料の中には膨大なガラス乾板が含まれていました。ガラス乾板とは、写真の黎明期にフィルムの代わりに使用したものです。撮影されたイメージはしっかりと定着しているものの、扱いにくく、長い時間、強い光も当てられないので、写っているイメージを鑑賞者に伝えることは困難で、こういうものを使っていましたと、実際に展示する以外に生かせる方法がありませんでした。しばらく考えあぐねていましたが、スキャナーでリバーサルを読み込むことができるのだから、ガラス乾板も読み取れる筈という考えに行きつきます。今ではガラス乾板を生かす一般的な方法ですが、当時は画期的な方法に思えました。その時に相談したのがPCや周辺機器にも詳しかった高さんです。2人でいろいろ試しつつも、最適な方法を見つけながら、少しずつガラス乾板を読み込んでデジタル化していく作業を続けていきました。2009年に高さんと私は近代美術館に異動します。デジタル化の作業は万代島美術館の学芸員に引き継がれました。2012年に今度は高さんが再び万代島美術館に異動します。私は高さんが近美に残した展覧会「GUN-新潟に前衛があった頃」を引き継ぐことになり、その業務に忙殺されていました。高さんが万代島美術館に異動してしばらくした後、彼から連絡があり堺時雄のガラス乾板のデジタル化が終了したと連絡がありました。私はすっかりデジタル化の作業のことを忘れていましたが、彼は忘れてはいなかった。むしろ、万代島美術館でその仕事を引き継いで、こつこつ続けてくれたようです。ニコニコしながらデジタル化したCDROMを私に渡してくれたことを思い出します。
しかし、それ以降、私と高さんとの仕事はあまり交わることが無かったと思います。彼は2015年5月から万代島美術館で始まった「日韓近代美術家のまなざし-「朝鮮」で描く」をやり終えると、再び県庁文化行政課に異動していきました。そして、ほどなく、ある大学からトルコの学術調査参加についてのお誘いがあり、もともと興味のあった彼は夏季休暇を利用して、その調査隊に同行しました。そして、トルコ滞在中に急逝しました。彼は在日韓国人で、韓国籍であったため、ご遺体を日本に戻す手続きが複雑で時間もかかるということで、二度と日本の土を踏むことなく韓国で埋葬されました。近代美術館の德永元館長からこの話を聞き、本当のことなのか私には認識できませんでした。お葬式もなく、せめてお別れの会でもとも思っていましたが、ご遺族の意志と聞いていますが、その会が開かれることもありませんでした。彼のことについては、私にはいまだに宙ぶらりんな状態で、あれから時間が止まっているような気がしています。
彼の没後、彼が集めた膨大な専門書を大学が引き受けてくれることになり、その整理のために当時、万代島美術館の業務課長だった桐原さん(現・近代美術館長)と主のいなくなった、彼の家を訪ねました。黒を基調としたログハウス風の一軒家でしたが、そこの窓からは、いかにも新潟的な田園地帯が広がっていました。常に西洋に目を向けていた彼にとって、この景色をどのように感じていたのか、新潟は彼にとって優しい場所だったのか、すごく気になったことを覚えています。
定年が間近に見えてきた昨今、いろいろやり残したことが気になるようになります。その中の一つがデジタル化した堺時雄作品を紹介することでした。これは何とか、昨年度の近代美術館のコレクション展で紹介することができました。デジタル化された映像は現存する堺時雄の実作品より鮮やかで美しかった。また、いつか紹介する機会があればと思っています。
本来はこんな感傷的なことを書くつもりは無かったのですが、約15年ぶりに万代島美術館に戻って、その当時を思い出すと、デジタル化された写真と同じように、様々なことが鮮やかに浮かび上がってきてしまい、こんな機会でもないと、いや、こんな機会だからこそ、と考え記した次第です。
今も私の夢の中に彼は現れてきては、勝手なことばかりするので、夢の中でも私は止める一方です。そして、夢から醒めると、「最後まで勝手にいってしまいやがって」と、ついつい悪態をついてしまうのです。
新潟県立万代島美術館・館長 藤田裕彦
出来上がったばかりの万代島美術館でケース内照度を測る高さん