学芸ノートB版 2022-13「相澤コレクションの靉嘔初期作品について」

長岡の近代美術館で昨年開催されたコレクション展第1期(後期:2022年5月17日〜6月19日)の「相澤コレクションによる 靉嘔(あいおう)」では、新潟県立近代美術館・万代島美術館が所蔵する靉嘔の作品を一堂にご紹介しました。出品作品はすべて寺泊にあった相澤美術館の旧蔵品で、同館が閉館した翌2005年に県に寄贈された1,088点の「相澤コレクション」に含まれていたものです。寄贈された71点にのぼる靉嘔作品(うち17点は裏面にも作品あり)のほとんどは初期の素描や水彩、版画作品ですが、制作年不明のものが多く含まれていました。特に、素描は油絵の部分的な習作やラフスケッチのようなものも多く、それら位置づけのはっきりしない作品は収蔵後、一度も展示されていませんでした。

そこで今回の展示を機に、文献や資料で所在や制作年の判明している他館所蔵の初期作品を手がかりに、様式やテーマ、また関連する油彩画を同定することで可能な限り制作年を推定し、各作品の位置づけを明らかにすることを目的に作品の調査を進めました。その結果、いくつかの素描は油彩画との関連が確認でき、それ以外についても同一シリーズとみられる作品の存在が確認できました。

また、コレクターの相澤直人氏が約26年前に埼玉の川越画廊からこれらの作品をまとめて購入していたことが調査で判明し、購入に際しては収蔵後にまとめて展示する機会を作るという条件を作家本人から付与されていたこともわかりました。その結果、相澤美術館では1997年3月1日から6月17日に「靉嘔 初期水彩素描」展が開催されたことが記録に残っています。同時期には富山県・入善町の下山(にざやま)芸術の森発電所美術館でも「靉嘔展」が開催されており、作家自身が両個展に足を運んだと、同行された川越画廊主からの証言も得ました。

 

靉嘔(本名・飯島孝雄)は1931年茨城県出身の現代美術家で、渡米後の前衛芸術運動「フルクサス」での活動や虹色で覆われた作品がよく知られています。一方、それらとは全く異なる作風の初期(1953〜58年頃)の作品は、瑛九を中心に結成された「デモクラート美術家協会」や、池田満寿夫らと結成したグループ「実在者」時代の靉嘔の活動を伝えています。そうした初期の版画作品は「小コレクター運動」を通じて福井をはじめとする各地のコレクターに頒布されましたが、素描や水彩はそれほど多くは残っていないと考えられます。その意味で、相澤コレクションの作品は靉嘔の初期の活動を伝える稀少な美術資料といえるでしょう。

しかしながら、先にも述べたように、新潟県に収蔵された靉嘔の素描や水彩には年記がほとんどなく、また大半が習作やラフスケッチのようなものであったため、既存の文献資料のみで正確な位置づけを行うことは困難でした。そこで、ご健在である作家にお会いし、作品の画像を持参してお話をうかがいました。半世紀以上も前のことであり、すべてを鮮明に記憶されているわけではありませんでしたが、そこで得られた作家の言葉とあわせて、これらの作品について振り返っておきたいと思います。

 

「人」、そして「男と女」

靉嘔は大学の卒業課題として《自画像》(1953年、筑波大学所蔵)を提出して以降、渡米までの5年間に人間をモチーフにした作品を数多く描きました。最初期のシリーズ作品《悲劇よりもより悲痛なるものの静寂》では、表現主義的なスタイルから次第に幾何学的なスタイルへと変化しながらも、主に単独の胸像が描かれています。その後、1954年頃からはレジェ風の構図の中に顔のない人物像も多く出現するようになり、人数も複数になることもありますが、この時期の靉嘔にとって人間そのものが主要な関心事であったことは間違いないでしょう。

これらの中でも特徴的なのは、1953年頃からみられる幾何学的に様式化された奇怪な人(生物)(図1)や、年輪あるいは包帯のような縞模様で描かれた人型(図2、3)です。相澤コレクションの図1の作品は《悲劇よりもより悲痛なるものの静寂7》(1953年、宮崎県立美術館蔵)の習作の一つと考えられ、他にも《現代の恋人》(1954年、広島市現代美術館蔵)や版画作品《鉄骨》(1957年)の習作とみられる図3のような素描も含まれています。また、図2と類似の人型は色彩パターンの異なるものが複数存在し、いずれも輪郭に沿って切り抜かれています。これらの人型は「第9回読売日本アンデパンダン展」に出品された大作《ベルが鳴る》(1957年、宮崎県立美術館蔵)に繰り返し登場するモチーフとほぼ同一であり、作家が構図を決める際に使用していたものと推測されます。

図1 [タイトル不詳] 1953年頃

図2 [人] 1957年頃

図3 《鉄骨(習作)》1957年頃

靉嘔はこのような縞模様で描かれた人物像について、人間のボリューム感、存在感を表現するためにこのような表現になったという主旨のことを語っており、そこにはジャコメッティが描いた素描に通ずるものを感じずにはいられません。靉嘔が学生時代からサルトルに関心を持っていたことを考えあわせると、両者には何らかの共通性を見出せるのではないかと思われます。

一方で、「男と女」も重要なテーマであったことが所蔵品に含まれる複数の素描(図4)からうかがえます。「男と女は両方いなければ完成しない。二つそろって当たり前のもの、互いに不可欠なもの」という作家の言葉や作品は、人間存在が男女の営みと不可分であることを示しているかのようです。

 図4 《大地にて(習作)》1955年頃

相澤コレクションの靉嘔作品においても、裏面に描かれたものも含めると約半数に人物や身体が描かれており、初期作品に指摘される「人間賛歌」という特徴が共通してみられることから、それらが1953~57年頃に制作された作品であることは疑いないでしょう。

 

「田園」

横幅が約370cmの大作《田園》(1956年、東京都現代美術館蔵)は、渡米前の靉嘔の代表作で、放射線状のラインと地平線を背景に、オレンジを基調とした明るい色彩で描かれた男女の集団が腕を組んだまま列をなして前進する様子は迫力に満ちています。習作とみられる相澤コレクションの素描(図5)では背景が水平方向の平行線で描かれており、油彩にみられる突進力が若干和らいでいるようですが、前面に描かれた四脚のクローズアップされた足からは油彩に劣らぬ迫力が感じられます。油彩作品には「食う為生きる為に耕す 父 母 兄 弟 姉 妹におくる」という言葉が書き込まれており、大地を耕すという人間の根源的な営みに対する作家の敬意や関心がうかがえます。

図5 《田園(習作)》1956年頃

《田園》に先立つ1954年、靉嘔は《田舎(田園の車)》(板橋区立美術館蔵)と題した油彩画を制作しており、そこには一組の男女とともに農耕具や鶏が描き込まれ、田舎の情景が表現されています。これら2つの作品からは、農村という主題への作家の関心の高さがうかがえますが、相澤コレクションにも農耕具を描いた数々のスケッチ(図6、7)が含まれており、年記はないものの、同時期に描かれたものと位置づけて間違いないでしょう。これらの作品からは、身近にあった日常的な対象を積極的に取り込もうとする作家の探究心が感じられます。

靉嘔は2010年頃から、陶淵明の「桃源郷」への関心を高めていきます。そのことと、初期の農村への関心が繋がっているのかは具体的に検証できていませんが、その可能性を考えた時、これら農村を舞台とする作品が集中的に描かれた背景や動機を調べることは重要であるように思えてなりません。

図6 [田園の車] 1955年頃

図7 [農具] 1950年代半ば

 

「鉄骨」と「雲」

「人」以外に靉嘔の初期作品によくみられるモチーフとして「鉄骨」と「雲」があり、鉄骨はしばしばレジェ風の人物とともに表現されています(図8)。レジェの作品において建築的構造物の中に人物が配された構図は定番であり、また靉嘔は大学の卒業論文でレジェを取り上げていることから、その影響は明白です。一方で、新しい街が建設されていた戦後の東京ではそのような光景は日常的で身近なものだったともいえるでしょう。靉嘔は、鉄骨はゼロから新たなものを作り出すことの象徴であるとも述べています。1955年頃から見られるこうした鉄骨と人物の画面は、上述の《ベルが鳴る》においては建築の一部としての鉄骨ではなく、柱のような構造物が縦横斜めと空間に自在に張り巡らされ、それによって画面に不思議な奥行きを生み出す仕掛けとなっていきます。このように、靉嘔は人間そのものから、次第に建築や都市、そして空間といったより広く抽象的な対象へと関心を移していったと考えられます。

図8 《無人間時代を超える人間の象徴(オートメーション)(習作)》1955年頃

また、同時期に画面に現れはじめる「雲」についても、作家はゼロから形を生み出すことの象徴であると語っていました。相澤コレクションの図9の作品は雲らしきモチーフが中心を占めていることからこの時期の作品と目され、同様の有機的形態による抽象作品《黒・白・黄》や《黒の中の白・黄・赤の形》(いずれも1957年)が制作された1957年頃の制作ではないかと推測できます。図10の《ひまわり(習作)》で背景にうっすらと描かれていた白い雲が、《雲のかげ》(1955年)では雲そのものが主役のように画面を大きく占めるようになり、その後、1957年頃にさらなる抽象化へと向かったといえます。そして、雲がモチーフを具象から解放し、抽象への展開を可能にする契機となったと解釈できるのではないでしょうか。そのように考えると、渡米直後の1958-60年頃には“アニメイテッド・ペインティング”やアクション・ペインティング風の抽象作品を多数制作していた靉嘔ですが、その素地は渡米前にすでに準備されていたといえるでしょう。

図9  [雲]  1957年頃

図10 《ひまわり(習作)》1955年

今回の展示では、靉嘔の初期作品に特徴的なモチーフやテーマに着目することで所蔵品の素描や習作の位置づけを明らかにするとともに、靉嘔の作風の変遷もご紹介しました。膨大で多彩な作品を作り続け、その理解も一筋縄ではいかない靉嘔ですが、初期作品の調査研究や展示を通じて、今後もその魅力をお伝えしていきたいと思います。

(主任学芸員 濱田真由美)

 

※ 文中の図版はすべて新潟県立近代美術館・万代島美術館所蔵の「相澤コレクション」

※ 相澤直人氏と相澤コレクションについては、松矢国憲「平成17年度寄贈「相澤コレクション」について」『新潟県立近代美術館研究紀要』第7号(2006年)を参照。

※ 作家の言葉は、筆者による作家への聞き取り調査(2022年4月28日作家の自宅にて)に拠るものです。