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学芸ノートB版 2022-10「水島爾保布の官展初入選(2)『紛れ当りに等しい怪しげな光栄を担つてゐる私が……』」

【前稿の続き】
『中央美術』の帝展特集号には、関雪、柏亭の評言に加え、他にも爾保布の作品に言及していたものがあります。まずは、建築家伊東忠太[1867-1954]のコメントから。

併し中作以上の価値と認むべきものは決して少くないと感じた。今その数点を挙げて見る。(中略)
面白いものは堂本印象の『西遊記』、奇抜なものは水島爾保布の『阿修羅のをどり』等である。

「学者の見た帝展」「帝展日本画瞥見 工学博士 伊東忠太」
『中央美術』第6巻第11号(帝展号)、日本美術学院、
大正9(1920)年11月1日発行、128頁

忠太は日本画の展示点数が余りに多い(192点)のに、見る時間が少ないので十分な意見は述べられないと断りつつ、「中作以上の価値と認むべきもの」として挙げていたのは、鏑木清方、川合玉堂、廣島晃甫、蔦谷龍岬、矢澤弦月、菊池契月、石崎光瑤の7名とその作品で、最後に堂本印象と爾保布の作品に触れていたのです。独創的な建築で知られる忠太の目を捉えたわずか9点の一つに入っていたのですから、名誉なことでしょう。そう言えば、忠太は『阿修羅帖』なる書物全5巻を、この年大正9年4月から翌年にかけて国粋出版社から刊行しています。第5巻には爾保布も絡んでいますので、『阿修羅帖』と《阿修羅のをどり》の関係については、今後の調査課題にしたいと思います。
更に『中央美術』からもう1点。

『阿修羅の踊』は切子形の目鏡で子供に見せてやりたいね。

石欽生「帝展半畳記」
『中央美術』第6巻第11号(帝展号)、日本美術学院、
大正9(1920)年11月1日発行、175頁中段

投げ入れている半畳の意図は、同時代に生きていればこそ自明だったのでしょうが、揶揄の面白さが稿者には判らないことを白状しておきます。「切子形の目鏡」とは何でしょうか。「石欽生」が日本画部門で諷喩の槍玉に挙げていたのは、作家では清方と結城素明、作品名を挙げて囃したてられていたのが爾保布の作も含め4点、出品番号で取沙汰されていたのが4点でした。ですから、敢えて半畳に値すると見做された数少ない「見せてやりたい」作の一つだったわけです。筆者「石欽生」は、水彩画家石川欽一郎[1871-1945]でしょうか。石川は『みづゑ』第189号の帝展特集号にも評を載せていましたが、未調査で今後の宿題です。
また、別の雑誌に次のような評も見つかりました。

阿修羅のをどり(水島爾保布氏)は、手腕は見事で敬服するが、気味の悪い絵だ。而し斯の如き作家が大傑作を将来に齎す可能性がある。

木本宏房「帝展所感(邦画の部)」
『絵画清談』第8巻12月号、
絵画清談社、大正9(1920)年11月1日発行、36頁

筆者については、掲載頁の肩書きに「帝大法学部學生」と記載がありましたが、それ以上のことは調べてもわかりません。一介の法学部生の感想が掲載された理由も不詳です。筆者は「大傑作を将来に齎す可能性」まで想いを巡らせてはいますが、「気味の悪い絵」との率直な感想は、多くの観衆の同意を得るものだったのではないでしょうか。
続いてもう一つ紹介します。

「阿修羅のをどり」(木[ママ]島爾保布氏)は、活躍してゐる線の興味と、硝子絵具を唐突に駆使した技巧とが目を惹く。ちよいとした想像画位ゐの気持で画いたものだといふ。阿修羅の腰に結ばれてある金や銀の紐は余りに冗々[原文ルビ:くど〱[繰返し記号]]しい。

畑耕一「帝展日本画の或る反省」
『現代之美術』第3巻第7号、現代之美術社、
大正9(1920)年11月10日発行、31頁

執筆した畑耕一[1886-1957]は、生年からすると爾保布より二歳下になりますが、一高時代から小説を発表して活躍、大正7(1918)年東京帝大英文科を32歳で卒業して、東京日日新聞社に入社、学芸担当記者を務めていました[広島市立中央図書館による「Web広島文学資料室「畑耕一」」]。この文章は所属メディアではなく、外部の媒体に発表していることになります。
「硝子絵具」とは聞き慣れない言葉ですが、鉱物の細かい粒子が煌めく日本画の岩絵具のことだと思えば納得です。ひょっとすると安い絵具の卑称として普通に流通していた用語だったのでしょうか。畑は爾保布の過剰な描写に幾分か批判的ではありますが、『現代之美術』の編集者は好意的だったかもしれません。というのも、入選作の一部を図版紹介する誌面中に爾保布の作も見つかるのですから[同誌34頁]
ところで、畑が在籍していた東京日日新聞社ですが、実は爾保布も籍を置いていたのでした。大正7(1918)年10月の『大阪朝日新聞』の筆禍事件により、責を負わされた上司長谷川如是閑らに連なり職を辞したと言われていた爾保布ですが、これまで退職時期、帰京時期が定かになりませんでした。最近になってやっとその解答に役立つ情報を『讀賣新聞』の雑報「よみうり抄」に見つけることができましたので、話が迂回しますが記しておきます。「昨日大阪に赴きたるが近く一家を纏めて上京し中根岸に居を卜する由」[大正8年5月21日付朝刊7面]、「下谷区中根岸二十九に卜居せりと」[大正8年5月30日付朝刊7面]、「此程大阪朝日新聞社を辞し東京日々新聞社に入れり」[大正8年6月5日付朝刊7面]
爾保布の動向を『讀賣』が報じていたのは、知人のネットワークから記者加藤謙がそうしていたのだと推測されます。残念ながら、『讀賣』の記事だけで、朝日の退社日、東日の入社日を即断するのは拙速です。なので、筆禍事件のあと半年以上は在阪で過ごしながら東京と行き来し、最終的に大正8年5月末に帰京、6月初めには東日入社だったのだと、ひとまずは整理しておきましょう。
入社後の『東日』紙面には、7月14日からの連載が見つかり、以降も連載記事が幾つもあります。仕事をこなす傍らで、1年違いで入社した同世代の畑とも交流があったと考えるのは自然ではないでしょうか。「ちよいとした想像画位ゐの気持で画いたのだといふ」と仄聞したかのような書きぶりの背後には、二人の間での取材の遣り取り、とまではいかなくても、社内で交わした言葉の欠片があったと想像しても、あながち無理はないようにも思えるのですが。
さて、畑は『東日』の学芸担当記者でありながら、何故自身の所属する『東日』紙面に展評を執筆せず、社外の誌面に載せていたのかと疑問が湧いてきます。入社2年目とは言いながら、既に文芸に通じた実力のある記者です。国家の一大文化催事であった帝展の作品評を担当していて不思議はないはずです。ところが、任せることになっていたのは、新進作家として売り出し中の芥川龍之介[1892-1927]だったようです。しかしながら、実際に帝展の日本画評を担当したのは、爾保布自身だったのでした。

芥川君が書く筈であつたところ都合で私におはち[原文傍点]が回つて来た。誠にガラが悪くなつて読者諸君には相済まぬ次第であるが、元来批評なんかといふものは書く当人にしろ書かれる対手にしろ、決して有難さのしみ〲[繰返し記号]するものではない。況んや紛れ当りに等しい怪しげな光栄を担つてゐる私が、同じ太陽系統中の彼是に就いて何かいふのは、構わないやうなものの例規によれば遠慮すべきが至当のやうでもある。であるのを、努めてやらなければならなくなつた。これが所謂ジヤアナリズムといふものなのであらう。

水島爾保布「帝展 日本画 一」
『東京日日新聞』大正9年10月26日付朝刊5面

「芥川君」が果たして「龍之介」でよいのかどうか、確認する必要があるでしょう。芥川は、大正8(1919)年3月に大阪毎日新聞社の客員社員の辞令を受けていますが、出勤の義務なく、年数本の作品を紙上で発表することが条件という好待遇でした[国際芥川龍之介学会ISASのHPより]。大毎は、明治44(1911)年に東日を買収合併して、両紙は姉妹紙のような関係でしたから、大毎社員で在京の芥川に東日の仕事が回ってきても不自然なことはないでしょう。
芥川と爾保布の関係では、件の『人魚の嘆き 魔術師』が大正8(1919)年8月に刊行された際の広告文を寄せたのが芥川でした。先輩谷崎の文章について褒め上げるのは勿論のこと、挿画についても「新進洋画家水島爾保布氏がその快筆を振へる絵物語」、「日本のビアズレの称ある画伯の描画は作品の絵画的場面を巧みに捕へ」と大いに持ち上げておりました(「新進洋画家」との紹介にはこの際瞑目しましょう)。
では、何故に芥川は執筆せず、そして何故に爾保布に「おはちが回つて来た」のでしょうか。その辺りの経緯については、まだ納得の行く解答が見つかりません。ただ、芥川の代役を探すに当たり、「例規によれば遠慮すべきが至当のやうでもある」出品作家当人に他の日本画家の作品評を書かせるとは、社内でも揉めて当然の、随分と大胆な決定だったはず。恐らくは中々に困難な人選であったことと想像できます。そうした社内事情を慮ったためなのか、「紛れ当りに等しい怪しげな光栄を担つてゐる私」との自己認識は、普段舌鋒鋭い爾保布にしては随分と殊勝に思えます。ですが、見方を変えれば、自分自身にも容赦なく批判の眼を向ける、皮肉屋の江戸っ子らしい物言いとも感じられます。
あるいは、爾保布の遠慮がちな表現は、入選したとはいえ、思うほどには自作が評価されていなかった事実を踏まえたものと捉えるほうが妥当かもしれません。美術系の雑誌誌面を賑わしていた評言の数々をこれまで引用紹介してきましたが、どちらかというと辛口な内容でした。より広く一般的に読まれていた新聞紙面での帝展評となると、『讀賣』、『朝日』では爾保布の名に触れることすらありませんでした(『東日』は爾保布自身の執筆で言及なし)。今後は他の紙面も調査しなければなりませんが、上記3紙のうち唯一『東日』だけは、爾保布による展評連載が始まる前に、《阿修羅のをどり》の図版を掲載していました[10月23日付朝刊3面]
そう言えば、荒選り3日間を終えた翌10月11日の精査の様子を報じていた『東日』の記事に爾保布の名前がありました。10月12日付朝刊7面では、入選が見込まれる作家たちの名前を列挙して紹介、彼らは「出品中群を抜き昨日の最高に入つたが運命は一に本日に懸つてゐる」と報じており、そうした入選有力候補の一人として爾保布は数えられていたのです。社員の活躍を願い、贔屓目に応援する人物が社内にはいたのかもしれません。

*       *       *

次回、代役を任された批評家としての爾保布の筆を確認してみることにします。【続く】

(館長(業務課長) 桐原 浩)

■図版典拠:「帝国美術院第2回展覧会出品絵葉書」(水島爾保布《阿修羅のをどり》)、大正9年刊行。[稿者所蔵資料]