「日韓近代美術家のまなざし」展、終了しました。

「日韓近代美術家のまなざし―朝鮮で描く」展は成功裏に幕を閉じ、ただいま作品は、次の巡回先である岐阜県美術館で開幕を待っているところです。

会期中には、新潟日報や読売新聞、朝日新聞、毎日新聞といった全国紙で大きく取り上げていただき、さらには『美術手帖』に展評が掲載されました。韓国の美術雑誌『Art in Culture』では、巻頭で本展の特集をして下さることになっています。また、お客様からのアンケートでは、「京城から引き揚げて来たので、懐かしく拝見しました」という年配のお客様のご感想が印象的でした。

さて、本展をご覧になった若いお客様は、どんな感想を持たれたのでしょうか。新潟大学人文学部3年の島田悠輝さんが、当館に本展のご感想を寄せて下さいました。展覧会が伝えたかったこと、しっかり感じ取って下さって、担当学芸員としてはとても嬉しいです。

もし見逃してしまったという方、今後は岐阜県美術館、北海道立近代美術館、都城市立美術館、福岡アジア美術館に巡回しますので、お近くに立ち寄られた際には、ぜひともご覧くださいませ。なお、万代島美術館の次の企画展「生誕100年 亀倉雄策展」は当館の自主企画ですので、他に巡回はしません。こちらもぜひお見逃しなく。

以下、新潟大学の島田さんのご感想です。

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普段、あまり芸術鑑賞をすることがない私であるが、本展では芸術作品が持つ力強さを肌で感じた。そうした中で、特に2つのポイントに目が留まった。

1つ目は風景画の描き方である。山々や川の荒々しさ、および穏やかさが筆のタッチから伝わってきた。それらの絵の中には、非常に微細な部分や、逆に、絵の具をチューブから出して直接画紙に擦り付けたのではないかというほどのダイナミックな部分が混在しており、同じ風景でも描き方によってかなり異なる印象を受けた。

また、近づいてよく見てみると、絵の凹凸に気が付いた。こうした、絵の具の凹凸や筆の通った跡は風景に立体感を与え、風景が画紙から浮き出てくるように感じられた。とりわけ紅葉した山々はまるで燃え盛る炎のように激しく描かれており、本物の景色が目に浮かぶようだった。一般の人がこのような荒々しい絵を描くと、絵が雑になり、遠くから見たときに全体的な見栄えが悪くなることだろう。しかし、本展の風景画は絵から離れて見てみても、その芸術性は全く低下しなかった。それどころかむしろ、離れて見たときのほうが、その輪郭や影などがはっきりと浮かんできた。そこで私は「あぁなるほど、この風景画は離れて見てこそ『完成』するのだ」と感じた。作者は自分からどう見えるかではなく、観覧者からどう見えるかをきちんと考えて描いていたのである。このように、絵を繊細な視点で見るか、大胆な視点で見るか、また、どのぐらいの物理的距離で作品を見るか、など、どういった方法で絵を鑑賞するかによって、多様な解釈ができることを知った。

2つ目は、人の表情や描き方による作者のメッセージ性である。もちろん普通(この「普通」という言葉自体にも議論の余地はあるが、ここでは省略)の誰もが「上手い」と感じるような人物画も展示されていた。しかし、私が注目したのは「普通ではない」表情や顔色、描き方の人物画である。この作品は一体何を意味しているのだろう、と幾度も考え込む作品がいくつかあった。

例えば、曺良奎『密閉せる倉庫』(1958)は、人の顔が黒く、表情もほとんど分からないように描かれている。しかし、その後ろにある倉庫は青、赤、白というカラーで描かれているのである。本来であれば、倉庫がモノクロ、人物がカラーというように、配色が逆であるはずだ。このことを私なりの解釈をしてみれば、絵画中の人たちの「心」が倉庫の中に密閉されてしまっており、「闇」から抜けだせない状態にあるということを示しているのではないだろうか。作者はあえて、現実ではありえない人間の姿で描くことで観覧者にメッセージを投げかけているように感じた。

そうした「苦しみ」を描いた作品をもう1点取り上げておきたい。展示通路も終盤、出口が近づき、そろそろ帰ろうかと思った矢先、この作品を見て衝撃を受けた。全和凰『ある日の夢 ―銃殺』(1950)である。本作品は全体的に「闇」を表していて、虐殺される人々の叫びや恐怖感が伝わってくる。一方、虐殺する人たちは背景とほぼ同色で描かれており、あまり目立たない。また、出血や傷跡なども鮮明には描かれておらず、とにかく「闇」や「恐怖」といった暗いイメージを全面に押し出した作品となっている。のちに調べてみると、本作品は三・一独立運動の様子を描いたものであるという。この事件では、日本軍の武力による運動の鎮静化により、多くの人々が殺害された。このことを頭に入れた上で再度、作品を振り返ってみると、本作品は「日本軍から被害を受けた」という点ではなく、「その場にいた人たちがどれだけの恐怖を味わったか」という点に焦点を当てていることがわかる。被害報告は事件後に文字で伝えることもできるが、そこには全くリアリティがない。本作品は、文字では決して伝わらない、現場のリアルな感情を教えてくれるのである。

今年、韓国と日本は国交正常化50周年を迎えた。これを1つの節目として、これまで以上に両国の友好関係の強化や相互理解の増進が期待される。その一助として、本展は大変価値の高いものであったと思う。なぜなら本展の作品は単なる対象物の表面的描写にとどまらず、「事実」を描写したものだからである。自分の見ている世界だけが「事実」ではなく、他者が見ている世界も同様に「事実」であることを私たちは知らなければならない。本展を通して私は、多角的な視点でものごとを見つめることと、芸術作品とは目で評価するものではなく、「心」で感じ、読み解くものであるということを学んだ。韓国・朝鮮と日本の関係においても、多角的な視点から、「心」を通した関係が築かれていくことを望む。