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B.island(新潟県立万代島美術館ニュース)第20号-2「芳年と月岡玉瀞、そして西井コレクション」

企画展「芳年 激動の時代を生きた鬼才浮世絵師」(会期:令和3年3月20日~5月5日)は、京都の日本画家・西井正氣(にしい・まさき)氏が収集した質・量ともに優れた月岡芳年のコレクションをご覧いただくものです。ここでは芳年の孫にあたる日本画家・月岡玉瀞(つきおか・ぎょくせい、明治41~平成6)について触れ、芳年、あるいは西井コレクションと新潟県とを繋ぐ“知られざる縁”について紹介させていただきます。

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明治17年(1884)、芳年と坂巻たい(泰)という女性との婚姻届が提出されました(芳年の結婚時期については諸説あり)。たいにとって、これは2度目の結婚でした。日本橋の老舗旅館、近江屋善兵衛(本名・羽生久亮)との初婚時にもうけた次男・弁之助(べんのすけ、明治2~昭和2)は、3年後の明治20年(1887)芳年に入門、さらに尾形月耕や松本楓湖にも師事して坂巻耕漁(こうぎょ)、のち月岡耕漁と号し、能舞台をテーマにした「能画」のジャンルを開拓しました。

耕漁は、錦絵の版元・津田源七(本展にも出品されている月岡芳年《皇国二十四功》等を出版)の娘・きくと結婚し、明治41年(1908)、長女・文子(ふみこ)が生まれます。文子は女子美術学校(現在の女子美術大学)を卒業後、松岡映丘に師事、月岡玉瀞と号して、父・耕漁が創始した能画を継承します。「能画会」という美術団体を設立し、リーダー的役割を果たしました。

文子は昭和20年(1945)、縁あって新潟県高田市(現在の上越市)の浄興寺門主・稲田英昌(えいしょう)上人に嫁ぎ、昭和35年(1960)英昌が亡くなると、以後14年間にわたって住職代務者を務めました。その間、能画を描いて寺を財政的に支え、また浄興寺宝物館の建立にも尽力しました。平成6年(1994)、86歳で他界します。

本展展示品のコレクターである西井正氣氏は、生前の月岡玉瀞(本名・稲田文子)と長らく親交があり、玉瀞が耕漁から継承した芳年の遺品を譲り受けました。本展で紹介する肉筆画・下図類の一部は、かつて月岡玉瀞が所蔵していたものです。

【図1】は芳年の肉筆画《鍾馗図》(本展出品番号No.240)とともに写る月岡玉瀞の姿です。今回の「芳年」展では、浄興寺の協力により、同寺が所蔵する玉瀞筆《羽衣》【図2】を借用し、《鍾馗図》と並べて展示しています。

ところで、芳年が画姓とした「月岡」は、祖父の兄弟である吉岡為三郎が絵師として名乗った「月岡雪斎」に因むものでした。江戸中期に関西地方で活躍した浮世絵師・月岡雪鼎(せってい)の子も雪斎と号しましたが、現在では先述の雪斎とは別人と考えられているようです。ただし、仮に「同一人物説」に従うなら、江戸から続く「月岡派」は平成期に月岡玉瀞の死をもって新潟県上越市で途絶えた、ということにもなります(初代雪鼎、二代雪斎、三代芳年、四代耕漁、五代玉瀞)。現在の浄興寺門主・稲田善昭氏の親族にあたる稲田春英氏(故人)は、この説に基づき、『文芸たかだ』221号(高田文化協会、平成8年1月)に「美の系譜 月岡派の終焉―五代玉瀞の逝去に因んで―」を寄稿しています。

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月岡玉瀞については、今回、『新潟日報おとなプラス』(夕刊)令和3年(2021)4月5日付の本展に関する特集のなかで取り上げていただきました。本展図録掲載の西井正氣氏による「芳年蒐集譚」にも玉瀞への言及がありますが、同じく西井氏による「芳年をめぐる人々」(「最後の天才浮世絵師 月岡芳年展」図録、京都文化博物館・日本経済新聞社大阪本社、平成13年)には、さらに詳しい記述があります。また、城西国際大学水田美術館(千葉県東金市)で平成17年(2005)に開催された「近代の能画家 月岡耕漁展」には、一部玉瀞作品も含まれ、図録も発行されています。

本展を機に、新潟県ゆかりの日本画家・月岡玉瀞に関心を持たれた方は、ぜひこれらの文献もご参照ください。

長嶋圭哉(県立近代美術館 主任学芸員)

 

【図1】
月岡玉瀞と芳年筆《鍾馗図》
【図2】
月岡玉瀞《羽衣》(部分)制作年不明 浄興寺(上越市)蔵