B.island(新潟県立万代島美術館ニュース)第20号-10 「展覧会に落ちる―水島爾保布の人魚たち(3)」
爾保布の描く人魚たちについて、2回に亘り記してきました。今回3回目にして最後に紹介したいのは、恐らく見ることの叶わない作品、即ち、帝展に落ちた人魚の絵についてです。
水島爾保布は東京美術学校で日本画を学んだのですから、日本画家として大成したいと望んでいたはずです。しかし、展覧会に出品して認められたのは、だいぶ後になってからのことです。今から遡ること101年、挿画本『人魚の嘆き 魔術師』の仕事を終えた翌大正9(1920)年になってようやく、第2回帝国美術院美術展覧会(通称「帝展」)に入選を果たしました。36歳の時です。そして、その5年後の大正14(1925)年の第6回帝展で2度目の入選となりますが、賞には届かず、それ以降入選記録はありません。
国主催の公募展での入選は、当時画家として生きようとする者にとっては、是非とも必要な身分証明書のようなものだったと言ってもよいでしょう。大正9(1920)年の入選以前にも爾保布が官展に挑戦していたのかどうか、確言できる材料はありません。しかしながら、翌大正10(1921)年にも、爾保布はその狭き門を再び通り抜けんと試みていたのでした。結果、阻まれたことを次のように記しています。
今年は帝展へ「人魚」を出した。断るまでもないが一も二もなく蹴飛ばされて了つた。何ういふところがいけなかつたのか、その間の消息は一切不明だが、僕の 表はし得たつもりでゐた一流のオリエンタリズムに対して、肯定してくれるものは誰もなかつたらしい。少しガツカリした。ガツカリはしたものゝ、幸にしてパトロンなんて憑きものを持つてゐないだけに、落選によつて特別には響く程の問題もないが、去年の時にくらべて郵便物の来方が大部少ない、偶々一人こんな極楽蜻蛉が飛び込んで来た。某誌の記者君で落選についての感想がきゝたいといふのである。その人の水の向け方たるや、帝展に落選したのを動機に、僕をしてBolshevisme 乃至 Anarchisme にでもなつて了へといはぬばかりのケシかけやうである。誠に有り難い仕合である。猫いらずでもつきつけられな■がまたしも■も知れない。 *■は判読不能文字
(水島爾保布「愚談一束」、『東方時論』第6年11月号、東方時論社、大正10(1921)年11月1日発行、122-123頁)
江戸っ子らしい歯切れのよい啖呵には悔し紛れも滲んでいますが、そう、大正10(1921)年の第3回帝展で2度目の入選を狙った爾保布は「人魚」を描いて落選していたのです。この記述を読むと、結果に対して随分と思うところがあったのでしょう。裏返せば、相当の自信を持って作品を送り出したということにもなります。
落選した人魚の行く末はどうなったのでしょうか。本人の言うように庇護者もなかった爾保布にとって落選作の買い手があろうはずもなく、仮に手元で保存していたにせよ、この翌々年には関東大震災もありました。となると、作品が残っている可能性は皆無に近いと思われます。ただただ、残念極まりないところです。
そして、人魚落選の結果にもめげず、翌大正11(1922)年の第4回帝展にも爾保布は挑んでいます。ですが、芳しい果実は得られませんでした。ここでも、爾保布自身の文章を引用してみましょう。
今年の帝展も落選だつた。どこかの新聞には特選候補だとか何とかヨタな記事が出てゐたさうだが、とんだ特選だ。折角予防注射までしてゐるのに、コレラが下火になつたのも少し張り合いぬけだが、この特選も少しあつけらかんたらざるを得ないだろう。これで二年立てつゞけに振り飛ばされたわけだ。日頃の悪口雑言の手前、天王様は囃すがおすきワアイワアイとでもいはなければ引込みがつかない。まつたく我事ながらいゝザマだ。痛快だつたらありやしない。/ところへもつて来て更に人の悪いヤツがある。今朝起きぬけに訪れて来て、早速だが帝展罵倒の記事を書いてくれといふのだ。
(水島爾保布「根岸より」、『我等』第4巻第11号、我等社、大正11(1922)年11月1日発行、77頁。
再掲(語句修正有):水島爾保布『愚談』、厚生閣、大正12(1923)年5月15日発行、82-83頁。)
爾保布の率直な筆からは、落選者側の心情や周囲の状況さえも窺えます。実のところ、爾保布はその後も官展に挑み続けてはいたようで、「帝展出品騒動」なる文章を、昭和9(1934)年の『政界往來』11月号に掲載しています。その内容を紹介してみましょう。
「既に七八年もの以前の事、当時我輩も出品者の一人として、作品を近所の運送屋に依托した。」のですが、新聞報道で落選を知ります。ところが、閉会後になっても帝展側から引取り要請の連絡すらありません。結局のところ、運送屋の小僧が搬送中に誤って作品を破損、展覧会事務局に持ち込みはしたものの損傷作品の受領は拒否され、そのまま持ち帰って自宅に放置していた、というのがことの顛末でした。憤慨して然るべき事態でしたが、その後に展開する悲喜劇を面白おかしく書き連ね、最後に「以来帝展には出品しないと決めてゐる。」と結びました。
文展や帝展の歴史は、受賞者・入選者の歴史であって、落選者の名前や姿はどこにも残りません。ですから、爾保布の文章は、落選者側の様子を語る貴重な証言だと思います。この他に、世に知られている数少ない事例として思い出すのは、魚沼に生れ柏崎で育った洋画家宮芳平[1893-1971]との交流を描いた、森鴎外の短編小説「天寵」くらいでしょうか(宮芳平の回顧展は平成26(2014)年に長岡の近代美術館でも開催されました。https://kinbi.pref.niigata.lg.jp/tenran/kikakuten/2014miya/)。大正3(1914)年の第8回文展に落選した美校生の芳平は、大胆にも審査員の一人であった鴎外の許を訪れて、真率に落選理由を尋ねます。それから生まれた遣り取りが小説の素材となったのです。この短編は北原白秋の主宰する雑誌『ARS(アルス)』創刊号に発表されました。大正4(1915)年の4月のことです。
その前年大正3(1914)年10月、爾保布は「落選画」と題した小説を『新潮』第21巻第4号に発表しています。その文章は、「去年文展でハネられた画(ルビ:え)、今年博覧会で落選した画、この二枚の絹本を草稿の模造紙にくるんで、不性無性に家(ルビ:うち)を出は出たが、そして電車に乗りは乗つたが、まだハツキリと決心が着かない。無論村田にあつていふ言葉の順序などは考えても居ないのである。」と始まります。芳平と同様に、爾保布自身も文展落選組だったのでしょうか。小説という体裁をとってはいますが、貧窮する画家が落選作を売りに行く屈折した心持ちを吐露する内容は、案外自身の体験をそのまま叙述しているのかもしれません。というのも、大正元(1912)年11月、爾保布は友人たちと行樹社を結成して作品を世に問い、翌年大阪に巡回させるも作品の売れ行きは不如意で、その際の出来事を同人誌『モザイク』に発表してもいましたから。なので、『讀賣新聞』や『大阪朝日新聞』などにコマ絵を提供しては、日銭を稼いでいたのでしょう。大阪朝日新聞社に定職を得るのは、大正4(1915)年3月からのことです。
本稿では、寂しくも落選の話ばかりになってしまいました。このままで終わっては、画家に対してあまりに礼を失することになります。なので、稿を改めて、帝展の入選作品についても記す機会を持ちたいと思います。
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そういえば、爾保布が人魚を描いて落選した第3回帝展の1年前の回、つまり初入選した大正9(1920)年の第2回帝展では、人魚を描いた作品が話題を呼んでいたのでした。鏑木清方の《妖魚》です。審査委員として出品したこの六曲屏風に対しては、賛否が大きく分かれました。当時、世間の注目を集めたこの作品、当館で今秋に開催予定の展覧会「コレクター福富太郎の眼」にやってきます(https://banbi.pref.niigata.lg.jp/exhibition/fukutomitaro_collection/)。長岡の近代美術館で平成7(1995)年開催の「金鈴社の五人展」に出品されて以来ですから、実に26年ぶりのお目見えとなります。貴重な好機、お見逃しなきように。
(館長・業務課長 桐原 浩)