B.island (新潟県立万代島美術館ニュース) 第20号-14「展覧会に落ちる―水島爾保布の人魚たち(3) 補遺 その2」
「補遺その2」とは何とも間が抜けていますが、「補遺」を書いた時点で見つけられていなかった「発見」を追記します。既に自明の事実かもしれませんが、補遺の補足として記しておきたいと思います。
先のB.island第20号-11 では、水島爾保布が帝展初入選の翌年、「人魚」を描いて出品するも落選の憂き目にあったと、そしてその作品《公子と人魚》とは、谷崎潤一郎の「人魚の嘆き」に関連する可能性が窺えるのだと、くだくだしく記しました https://banbi.pref.niigata.lg.jp/topics/b-island20-11/。
その後、更に資料を集めていましたら、爾保布本人がそのことを明らかにしていることが判りました。谷崎の作を基に作品を描いて帝展に出品したものの、落選したのだと。
その記述は、雑誌『我等』に連載されていた爾保布の文章中にありました。冒頭部分を引用して紹介します。
谷崎君の「人魚の嘆」からヒントを得てかいた人魚の画を帝展に出した。去年のより今年の方が余程いゝつもりだつたのだが、無条件で落選した。で、今年の展覧会は去年のよりも余程勝れたものが陳列されるに違ひない。誠におめでたい次第である。とはいふものの内心頗る不平だ。審査員なんて沢山さうにいつて一体どこへ目をつけてるんだらうとも思つた。俺の絵を落選させるやうな展覧会なんか、そんな展覧会を所有してゐる日本なんか、アメリカの飛行機から爆弾でもクラツてペシヤンコになつてしまへばいゝと思つた。(後略)
(水島爾保布「根岸より」、『我等』第3巻第11号、我等社、大正10(1921)年11月1日発行、61頁。)
というわけで、件の有名な白黒挿画の後日譚として、爾保布はそこから派生した《公子と人魚》を日本画で描いて第3回帝展に応募するも審査員の眼鏡に叶うことはなく、作品は日の目を見なかったのでした。何のことはない、事の顛末は本人自身の筆で既に公表済みだったというのが、オチです。
「補遺その2」としての報告は上記に尽きます。調査不足で書いてしまった不明を恥じなければなりませんが、調べ続けていると、こうしたことも起こります。言い訳に過ぎませんね。
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次回、もう少しばかり周辺の事情に触れておきたいと思っています。
(館長・業務課長 桐原 浩)