学芸ノートB版 2024-10 小さなメダルが語るもの ― 文芸委員会賞牌
現在、長岡の近代美術館で開催中のコレクション展「近代美術館の名品」では、令和5年度の新収蔵作品を展示していますが、その中の一つ、メダル作品《文芸委員会賞牌》の辿った数奇な来歴を紹介したいと思います。
作者である中之島長呂(現長岡市)出身の彫刻家・武石弘三郎は、ベルギーに留学し、肖像彫刻の第一人者として活躍しました。ベルギーより帰国してすぐ、森鷗外が主催した《松本順・石黒忠悳像》の制作を引き受けて以降、鷗外と交流を深めていきます。1911年(明治44)10月、賞牌の制作を依頼された当時の弘三郎は、留学先から帰国し都内に自宅兼アトリエを建設、国内での活動をスタートさせたばかりの新進気鋭の彫刻家でした。
「文芸委員会」とは、優れた現代作家と作品を選出し文芸を奨励することを目的に、当時の文部省により設立された組織で、文部省だけでなく、文学者や出版関係者も委員に名を連ねていました。その一人であった鷗外より弘三郎に賞牌制作が托されるのですが(1)、文部省からの「日本に於ける文芸に関係のあつた婦人を基礎とし、而して其の曲線美を表はして、更に西洋の文芸に関する神話的の意味を加味して意匠せよ」という注文内容に、弘三郎は「寝食を忘るゝことも数(しばし)ばあつた」ほど悩みながら原型を作り上げます(2)。完成した図像は、右手で月桂樹を捧げ、左手にギリシャ神話の女神カリオペを抱えた文芸の女神たる裸体の女性を中心に、背景に文部省の建物を配し、賞の主体たる文芸委員会を示したものでした(3)。若き日の作品からかぎこちなさはあるものの、小さな画面となっても破綻なく要素を収めたところに、顕彰像の制作に多数携わることになる弘三郎の感性が感じられます。
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《文芸委員会賞牌》1912年 当館蔵 (メダル裏面の文字は中村不折による)
一方の文芸委員会は、混迷を極めていました。
元々、文芸委員会は、優れた現代作家と作品を“国家”が選出するという性質から、設立以前から賛否両論が渦巻いていました。小説や戯曲など、各ジャンルの候補作から一作品を選奨すべく、委員たちにより何度も議論が重ねられるのですが、最終選考会の日に至っても規定の票数を得られた作品は現れず、結局受賞作は該当無しという結果に。作品の選出は成りませんでしたが、最終的に委員会は坪内逍遥を文芸功労者として表彰することで満場一致で可決します。しかし逍遙は、「文芸界の功労者として私一人が推薦されたと云ふ事は私には了解し難ねる」(4)と一度これを辞退。その後文芸協会の主幹として推薦を受けることでこれを承諾し、1912年(明治45)3月19日に表彰式実施の運びとなったのでした(5)。「多年ノ文芸ノ為ニ尽瘁シ其功労顕著ナリ仍テ文芸委員会ノ決議ニ依リ茲ニ賞牌並ニ賞金二千二百円を授与ス」と、このとき逍遙に授与された賞状には、確かに賞牌が贈られたことが記されています。逍遙の手に渡った賞牌は、早稲田大学坪内博士記念演劇博物館に収蔵され、今日に伝わっています。
その後、文芸委員会は1913年(大正2)に廃止され、結局文芸選奨ははただ1回実施されたのみでした。当館所蔵の賞牌は、作家の手元に残っていた作品です。委員会の迷走に翻弄され、賞牌は逍遙以外の文士たちの手に渡ることはありませんでした。メダルが辿って来た道は決して順風満帆なものとは言い難いのですが、若き弘三郎が手掛けた数少ないメダル作品であり、意欲作であったことは間違いありません。
本作は直径わずか5cm程の小さなメダルです。その小さなメダルの中には、明治末期の文芸界の混乱、彫刻家の苦悩など、様々な想いが綯交ぜとなり凝縮されているかのようです。
主任学芸員 伊澤朋美
参考文献
(1)『鷗外全集 第三十五巻』1975年、岩波書店
(2)『読売新聞』1911年12月3日
(3)『美術新報』第11巻第6号、1912年4月15日
(4)『東京朝日新聞』1912年3月5日
(5)文芸委員会の顛末については、以下の文献を参照。和田利夫『明治文芸委院顛末記』1989年12月、筑摩書房