学芸ノートB版 2023 「開館20周年を振り返る② 開館準備時代 2」

新潟県立万代島美術館の開館20周年を振り返る2回目の本稿は、20年前の昨日、8月17日に終了した開館記念展に思いを馳せることにしましょう。

万代島美術館の開館は2003年7月12日(土)です。ところで、その年、万代島美術館では6本の企画展(開館前のプレオープン展「いろ・かたち・さまざまな表現」5/1-5/5を含めると7本)を開催しました。8か月で7本の展覧会を実施するということも驚くべきことですが、それよりも、もっとびっくりすることがあります。下の表を見てもらえると一目瞭然です。

2003年度万代島美術館企画展一覧

絵画の現在 7月12日(土)~8月17日(日) 37日間
コレクター駒形十吉の眼 (併設:平山郁夫) 8月23日(土)~9月28日(日) 37日間
フランス・ハルスとハールレムの画家たち展 10月7日(火)~11月30日(日) 55日間
アメリカ現代陶芸の系譜展(併設:坂爪勝幸の陶空間) 12月6日(土)~1月18日(日) 44日間
新潟の作家100人 1月24日(土)~3月7日(日) 44日間
横山操と横の会の男たち ※コレクション展 3月13日(土)~5月5日(水・祝) 50日間

お分かりでしょうか。展覧会と展覧会の間が、「フランス・ハルスとハールレムの画家たち展」と「アメリカ現代陶芸の系譜展」の間が8日間あるだけで、他は全て5日間しかないのです。さらに大概の展覧会では前日に開場式を行いますので、実質4日間。この4日の間に前の展覧会の作品をきれいに梱包して美術館から搬出、そして次の作品を搬入して展示するまでを行っていたことになります。いくら開館記念の年だったからとは言え、これは驚異的な(ある意味、殺人的な)スケジュールだったと言わざるを得ません。その当時、管理職であった館長を除けば、学芸員は私を含めて4人。当時、一番年上だった私ですら、まだ37歳でしたので、学芸スタッフ全員が若かったからできたとも言えるでしょう。何でこんなスケジュールになったのか、今となってはその理由もはっきりしませんが、作品に何事もなくて良かったなとつくづく思います。その後、近代美術館に学芸課長として着任した時には、この頃を思い出して、展示作品とスタッフの安心・安全を考慮して、なるべく無理のないスケジュールを組むことを第一義に心掛けました。

さて、美術館によくおいでになる方々であれば、お分かりだと思いますが、展覧会には大きく分けて二つあります。自主企画展と巡回展です。簡単に言えば、作品の集荷から返却、図録の作成まで何から何まで自館だけで全部やってしまうのが自主企画展、美術館・博物館が3~4館集まって、展覧会業務を分担して行うのが巡回展です。一般的に前者は館の個性を発揮する企画や、その美術館の置かれている地域出身の作家、あるいは地域ゆかりの主題を紹介する展覧会が多くなり、後者は誰でも知っている国内外の作家や美術館・博物館を紹介するものが多くなります。巡回展の目的の一つは、単館では予算的に持ってこられない規模のため、経費を分担するためであり、2003年度の展覧会で言えば、オランダのホラント州の州都にあたるハールレム市、そこにあるフランス・ハルス美術館から17世紀のオランダ絵画を借用し、紹介した「フランス・ハルスとハールレムの画家たち展」がそれにあたります。逆に前者の代表は「絵画の現在」展ですが、この展覧会は私が今まで担当した中でも最も苦労した展覧会の一つです。展示作品数は94点と、突出して多いわけではありませんが、その企画から実現まで、ありとあらゆるタイプのアクシデントに見舞われました。

「絵画の現在」展は「現代の絵画をめぐる様々な問題に純粋に取り組み、意欲的な制作活動を行っている55歳以下の国内作家11人を選び、最近作をそれぞれの個展という構成で紹介」する展覧会であり、特に「最近作」という言葉からもわかる通り、本展のために制作された作品も少なくありませんでした。当初聞いていた作品サイズが大幅に変更になり、その情報が私に伝わらない状態で作品集荷に伺い、美術品専用車に乗りきらなかったということもありました。東京都内の集荷でしたが、その時点で使用可能な車両が長野県にしかなかったため、そこから美術品専用車をチャーターするという離れ業で乗り切りました。また、わずか1点の作品の集荷だったので安心していたところ、作品が出来上がったばかりで乾いておらず、額も無かったため、梱包材の接地面がなくて、作品梱包に何時間もかかった作品もありました。挙句に私自身が展示準備中に4mの脚立の下敷きになり、頭から出血、救急車で運ばれたこともあります。当時の写真を見ると、万代島美術館の開場式に私だけ頭に包帯をしていて、開場式に来られた出品作家の方々から随分と不思議がられていたことを思い出します。

こんな状況が続き過ぎて、逃げ出したくなる衝動にかられたこともありましたが、準備室時代からの学芸スタッフである今井学芸員(現・近代美術館専門学芸員)と故・高学芸員、開館年に近代美術館から異動して万美に加わった桐原学芸員(現・近代美術館長)、そして準備室時代と万代島美術館開館年からの総務スタッフは常に私の味方となって、バックアップしてくれたこともあり、何とか開館にこぎ着けられたというのが本当のところです。無論、私だけではなく、学芸スタッフは各々担当する展覧会を抱えて、常に激務に追われており、本当にたいへんな時代でした。故・高学芸員はこの頃の学芸スタッフのことを、同じ辛い厳しい時代を駆け抜けた仲間という意味で、よく「我々は戦友ですから」と言っていたことを思い出します。近代美術館の開館年に、私が初めて担当した自主企画展「佐々木象堂とモダニズム」の時にも感じたことですが、「展覧会は大勢の人々の協力があって、はじめて完成する」ことを、万代島美術館の開館年に改めて感じました。

「絵画の現在」展では、当館の依頼に快くご承諾頂いた作家の方々の多くは、お忙しい中にも関わらず、展示にも駆けつけて頂き、本当に素晴らしい展覧会にして頂きました。さらに、11人の作家全員が参加してくださった開場式は、それはそれは壮観で華やかなものとなりました。作家同士お知り合いの方も多く、また大学卒業以来、十数年ぶりに会ったという方々もおられて同窓会のようでもありました。私はと言えば、綺羅星のような、今をときめく日本を代表する美術作家ご本人とその最新作が、新潟市に出来たばかりの、この万代島美術館の展示空間に存在することが夢のようで、さまざまな苦労が一瞬で遠のいていくようでした。今でもその感覚は忘れられません。

さて、「大勢の人々の協力」は、なにも作家や美術館スタッフだけではありません。その一つが図録を制作してくれた印刷会社です。出品作家の多くが本展のために新作を用意されたということは、展覧会の開催間際までその作品はこの世に存在していないという状態です。しかし、折角の機会なのだから新作を図録には掲載したい。それもできるだけ大きく掲載したいということで、図版90頁中片開き14頁、両開き1頁を組み込んだ、たいへん難易度の高い複雑な仕様となってしまいました。こんなたいへん仕事を引き受けてもらっただけではなく、その印刷会社は印刷機の全てをこの図録に集中させることで、わずか16日前に当館に搬入された新作も含めて全作品を掲載、開場式前日には納品してくれました。

この図録の巻頭論文は故・本江邦夫氏(多摩美術大学教授)に執筆して頂きましたが、多少、原稿入稿が遅れたことを悔いておられました。開場式当日、図録をお渡しすると、それぞれの作家の新作が掲載されていること、そして、ご自身の原稿が巻頭論文として普通に掲載されていることに気がついて「奇跡のようだ」と言われたことが心に残っています。図録に関しては、作品をお返しに上がった時に、出品作家であった故・辰野登恵子氏から発色も含めて、こんな素晴らしい図録はないとも言われました。無論、多分にリップサービスもあったかもしれませんが、美術館はたくさんの企画展を開催できても、開館記念展だけはどんな館でも1回しかできない貴重な機会です。その図録を誉めて頂いたことは万代島美術館のはじまりにとっても幸せでした。引き受けて頂いた印刷会社には感謝しかありません。

閑話休題。ここで少しだけ別な話をします。「国内作家11人を選び」と開催要項には記載していましたが、我々が考えた作家は実は12人だったのです。展覧会の依頼を作家の方々にお願いしたとき、その作家さんは取り扱いギャラリー経由でお願いしたのですが、興味がないということで断られてしまいました。その作家さんにも、ご自身が考える現代美術に対する強い想いがあったようです。現在も第一線で活躍されておられます。我々も断られたこと自体は仕方がない事だと考えました。問題は12人目を新たに加えるかどうかという点でした。準備室内でさんざん議論しましたが、最終的には11人でいくことになりました。それはそれで正しかったと思います。

ただ、この時、私には次点の候補の1人が気になっていました。その作家はたいへん優れた作家でしたが、作家を絞る際には、いろいろな面で時期尚早ではないかという意見があったと思います。その作家を加えることで想定される多種多様な課題に、何とか対応できると、その当時、私ははっきりと断言することはできませんでした。しかし、その時から喉に刺さった魚の骨のように、この作家は私にとって気になる存在となっていきます。結果、新潟県立の美術館として、私はいつか、この作家の素晴らしい仕事を皆さんに紹介しなければならないと思うようになりました。そして、実際にその展覧会が実現するまでには10年以上を要することになります。しかし、これはまた別の話。別の機会に。

 

(新潟県立万代島美術館 館長 藤田裕彦)