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学芸ノートB版 2022-9「水島爾保布の官展初入選(1)『たとへ審査員が誤まつて入選させたものにしろ、……』」  

昨年、爾保布の帝展落選作に関して色々と書き連ねましたので、今度は画家の名誉のためにも入選作について記そうと思います。
爾保布の帝展初入選は、大正9(1920)年の第2回帝展に遡ります。36歳の時のことで、作品名は《阿修羅のをどり》でした。この年の3年後、大正12(1923)年9月に関東大震災が発生し、その後には第二次世界大戦での空襲もありましたから、この作品が現存する可能性は限りなく低いと言わざるを得ません。
しかしながら、幸運なことに当時のカラー絵葉書が現存しますので、イメージを窺い知ることはできます(図1)。カラー印刷とはいえ、経年による褪色や汚れを割り引いたうえで、補正しなければなりませんが、それでも、青色系の背景に執拗に繰り返される白雲(?) の対比が鮮やかで、その中央で踊る阿修羅に視線を移せば、指先まで細やかに行き届いた手足の仕草や、衣装や装身具の過剰なまでの装飾性、眼元が強調される顔つきなど、外連味たっぷりです。こうした特質が爾保布の絵画の一面なのだと、妙に納得させられる気がします。一方で、このような奇抜で異様な作品を落選させずによくも入選させたものだと、審査員の度量にも感心してしまいます。実際、審査員の間で各種議論はあったのでした。
まずは、自作について記した本人の文章が残っていますので、それを最初に紹介しておきましょう。やや長くはなりますが、貴重な情報なので全文引用しておきます。

悪魔のよろこび、堕落することの愉快、Fantaisie [稿者註:ファンテジー フランス語で、気まぐれ/独創性/空想力の意] の舞躍、淫楽の高唱、――そんなものが寄つてたかつて感覚的に私を使唆したのだと思つて下さい。蓋し変態でせう。そして又感謝すべき人間生活に対する弥次かも知れません。自然とか人生とかいふものに対して、概括的に決定的に批判を下し得る、「いゝ頭」の持ち主たちに対しては、厳にして而して敬虔なる感傷批評家諸君に対しては、誠に申訳のない冒涜をやつて了つた事になるかも知れません。が、私の画である以上、たとへ審査員が誤まつて入選させたものにしろ、相当の責任は持ちます。拙ければ拙いことに於て。‥‥
「淡き哀愁」と、「自然の核心」と、さういふ面倒なそして多くの今日の画論には是非ともなくてはかなはぬ権威ある文辞と、余り交渉のないことによつて、徒にグロテスクなもの、奇怪なものといふ丈にしか扱はれないとすれば、少し不服ですが、といつて、今更異議の申立てようはありません。
要するにサンシビリテエ [稿者註: sensibilité フランス語で、感覚/感性、感受性の意] に差引き勘定をつけるのはかなり至難なことです。
救ふべからざる無恥と、何うしても取つちめ難い倨傲の心の持ち主である私、その癖無闇と神経過敏である私は、さし当り今のところ悪魔外道を友達として、地獄の遊戯に沈湎より外に仕方がなさゝうです。踊らせて下さい。歌はせて下さい。弥次らせて下さい。そして不幸なる畸形児をしてしばらくの間畸形のまゝにしておいて下さい。偶々諸君の太陽系の中へ紛れ込んで、どこへぶつゝかるか、たゞしは何う外れて行くのか、自分自身にも薩張見当がつかないのです。

「作家の感想」「阿修羅のをどり」
『美術寫真畫報』第1巻第10号(第二回帝展号)、博文館、
大正9(1920)年11月1日発行、100-101頁

どうでしょうか。韜晦と俗気が混じり合う饒舌な言い回しはわかり易いとは言い難く、極めて独特で捻くれた文章です。「たとへ審査員が誤まつて入選させたものにしろ」と謙遜したふりを見せつつ、審査で問題になることを承知の上でこのような作品を送り込んだ、確信犯爾保布の斜に構えた姿が浮かび上がるようです。
実際のところ、審査員側ではこの作品をどう感じていたのでしょうか。第2回帝展の日本画部門では12名の委員が審査に当たりましたが、そのうちの一人、橋本関雪[1983-1945]の評があるので引用してみましょう。彼は第2回展の審査委員の内では最も若く、爾保布より一つ年上に過ぎません。しかしながら、関雪は当時の文展で入選受賞を重ね、大正5(1916)年の第10回展から3回連続で特選を受賞した結果、大正8(1919)年の第1回帝展から審査員に挙げられていたのでした。

水島爾保布氏の阿修羅の踊りは大分問題に成つた、氏は此で審査員を試験するとの意気込だつたそうだが兎に角無事に残つたお蔭で我々までが落第をせずに済だわけだ、一種の魅力はある、然しアメリカあたりの雑誌の焼直し位の処である

橋本関雪「日本画評」
『美術月報』第2巻第3号、美術月報社、
大正9(1920)年11月15日発行、4頁

末尾に「十月十五日談」とありましたから、開会前日の取材に応えた様子です。爾保布が「審査員を試験するとの意気込だつた」とは、どこで聞き及んでいたのでしょうか。「無事に残つたお蔭で我々までが落第をせずに済だ」と皮肉な調子を響かせ、「一種の魅力はある」と持ち上げつつも、「アメリカあたりの雑誌の焼直し位の処」としっかり釘を刺すことを忘れていません。総体としては、爾保布の個性的な表現を否定はしない、消極的な賛意といったところでしょうか。
こうした関雪の評価は、別の雑誌にもありました。審査の内情の一端も窺えますので、これも引用しておきましょう。

水島爾保布氏の『阿修羅のをどり』は少々西洋の版画臭いところがあるけれど、一種の妖味がある。(中略)
島成園女子の作は、はじめ赤の部に入れられたのだが、水島爾保布氏の作が白の部にあつて大分議論されることになつたとき、成園女子の作も再び持ち出されたので、その結果作家の個性に敬意を払つて、他の一点とともに選に入れることに決した。

「監査の所感」「先づ總花主義に 審査委員 橋本関雪」
『中央美術』第6巻第11号(帝展号)、日本美術学院、
大正9(1920)年11月1日発行、98-99頁

関雪は、爾保布の作について行樹社時代から既に言われていた版画表現との類似(輪郭線の強調でしょうか)を改めて指摘しつつ、「一種の妖味がある」点を評価しているように窺えます。
「妖味」と言えば、この年の帝展では審査委員を務めた鏑木清方[1878-1972]が人魚を描いた異色作《妖魚》を出品して賛否が錯綜し、大いに話題を呼んでいたことも想起すべきでしょう。
さて、関雪は、先程引用した文章冒頭部で、鑑査の様子にも触れていました:「最後の一時間までは、徹頭徹尾厳選で押し通して行つた。その結果は、青三〇、白一七〇、赤――といふことになつた。色々議論もあつたが、結局総花的にしたらよからうといふので中年作家、新しい風景画、南画家、女流作家のすべてを網羅することにした」。[同書、98頁]
この点について少し補足説明を加えておきます。日本画の出品作品総数は2,788点にも及び、10月8日から12日まで5日間で審査をしていました。関雪の言う「赤の部」とは落選区分であり、「白の部」は検討中の入選候補です。委員の間で入選問題なしとされた作品には青票が与えられていました。
最初の3日間の審査では、1日で900点以上の作品を赤と白とに荒選りです。随分な作業に思えるかもしれませんが、10時から17時まで鑑査との報道がありましたから、7時間のうち実働6時間として1時間で約150点、平均すれば1点当たり24秒で審査していたことになります。その後の2日間で白に分けていたおよそ350点余りをさらに精査して分別するのですから、鑑査する委員の労力も相当なものでした。
関雪は「青30、白170」と経過を語っていましたが、最後の最後に白の部から赤組に回された不運な作が結構あり、最終的に170点が入選(昨年第1回展の入選は82点)で、合格率にして実に6.1%でした。一方、少しでしたが、赤から白へと運命が逆転した作もあったということです。関雪の触れていた島成園[1892-1970]は、閨秀画家として著名な、当時既に官展受賞歴を持つ実績ある日本画家でした。今でこそ代表作とされる《伽羅の薫》(大阪市立美術館蔵)は、当落線上で議論が重ねられていたというわけです。落選枠から救出されたのは爾保布の作品があってこそ、と表現しては言い過ぎでしょうか。
関雪による評の引用元『中央美術』第6巻第11号は帝展特集号で、日本画・洋画・彫刻の全三分野毎に作品評を幾つも掲載しているのですが、爾保布の作に触れているものがもう一つありました。洋画家石井柏亭[1882-1958]が記したものです。

水島爾保布氏の『阿修羅のをどり』は之等[稿者註:飛田周山《文殊菩薩》、池上秀畝《孔雀明王》の2点を挙げ、「過去の様式を踏襲するのは謂れのないこと」と切り捨てていた。]と全然別な立場に居つて、印度のグロテスクな鬼神像を利用して近代人の或幻想をあらはしたものである。それが阿修羅の穏当な表現であるかどうかは氏の問ふ処ではあるまい。たゞ氏の画はどうも悪い意味に於て挿絵的である。画が大きくない。挿絵を画いても大きくない、こずんだ処のある氏の画の質が斯う云ふ画に迄及んで居ることを云ふのである。

石井柏亭「帝展の日本画」
『中央美術』第6巻第11号(帝展号)、日本美術学院、
大正9(1920)年11月1日発行、21頁

柏亭は爾保布より二歳上ですが、10代から既に浅井忠、中村不折に指導を受け、雑誌や新聞挿画の仕事をこなしつつ、明治37(1904)年7月に東京美術学校の西洋画科選科に入学して、黒田清輝、藤島武二の指導を受けています。その頃、爾保布も美校の日本画科在籍でしたので、専攻も学年も違うとはいえ学内ですれ違うことはあったかもしれません。
二人の関係性はさて措き、「こずんだ」とは聞きなれない言葉です。広辞苑を引くと「こずむ【偏む】」があり、説明としては、「①かたよる。傾く。特に、馬がつまずいて倒れかかる。②一つ所にかたよって集まる。ぎっしりと詰まる。混む。③筋肉が凝る。④気持が暗くなる。心持ちがねじれてくる。」と、4つ挙げられていました。柏亭は、「④気持ちが暗くなる。心持がねじれてくる。」を念頭に置いて、「こずんだ処のある氏の画の質」と言ったのだとすると、挿絵の仕事もしていた柏亭にとって、『人魚の嘆き 魔術師』の仕事も含めた爾保布の描く挿絵は、相容れないものだったと言えそうです。二人の芸術観の開きがそのまま表明されているものと受け取れます。

*       *       *

爾保布の作は、良くも悪くも目立つ作であったことは間違いないでしょう。他にも色々な評言があったのでした。【続く】

(館長(業務課長) 桐原 浩)

■図版典拠:図1 「帝国美術院第2回展覧会出品絵葉書」(水島爾保布《阿修羅のをどり》)、大正9年刊行。[稿者所蔵資料]