【学芸ノートB版】2025-6 図画教員・西垣維新について

昭和の戦時下に描かれた新収蔵品の紹介につづき、今回は画家の西垣維新(にしがき・いしん/1869~1944年)に話題を移したいと思います。

「維新」という名が示すように、江戸時代から明治へという大きな時代変革の最中、彼は愛媛の松山に誕生しました(明治2年)。愛媛県尋常中学校を卒業後、上京し、小山正太郎の画塾不同舎で絵を学びます。小山は越後長岡の出身ですから、ここで新潟との接点が生まれたともいえます。

 

2年ほどで帰郷し、図画教員として伊予尋常中学校に赴任します。図画教員とは今でいう美術教員です。教え子の一人に後の俳人高浜虚子がいましたが、時を経て大成した虚子が新潟を訪れた際、西垣と再会しています。

数年後、文部省教員検定試験(通称文検)に合格した西垣は、図画教員として全国各地へ赴任することになります。島根県師範学校をはじめ、埼玉県師範学校、三重県第一中学校を経て、明治33年に新潟県新潟師範学校に赴任しました。

なお、三重県の学校の前任者は鹿子木孟郎(かのこぎ・たけしろう)でしたが、鹿子木が西垣と入れ替わる形で埼玉県師範学校に赴任したことから交換人事だったのかもしれません。さらに、西垣が新潟に移った後任には赤松麟作(あかまつ・りんさく)が就任しました。鹿子木と赤松は、その後洋画家として名を成していくことから、彼ら若き図画教員時代のあまり知られていない接点をここに見ることができます。

 

さて、いよいよ新潟にやってきた西垣は、その後大正9年まで新潟師範学校で教鞭をとります。それは、20年という長い期間にわたりますが、その間、数年だけですが姓を「山崎」に変えた後、再び「西垣」に姓を戻しています。おそらく結婚によるものと想像されますが、新潟に長くとどまる理由がこうしたところにもあったのではと、これも想像します。

さらに、新潟高等女学校、新潟商業学校の教諭を兼務し、その後も新潟高等学校や新潟市立高等女学校など新潟市内の各校で図画教育に携わりました。それは昭和の初めにかけてつづきますが、一時期、新潟医学専門学校では標本製作にも携わっています。

このことに関係すると思われますが、後年は絵画のみならず彫塑なども手がけ、さらに能面の研究と制作に力を注ぐことになります。神社や能楽師からの制作依頼も多くあったようです。また、自らを「伴左」と号し、手がけた能面にこの号を添えた作例も確認しています。

 

西垣維新《(題不詳)》制作年不詳 61.0×50 .0cm 油彩、キャンバス

※昨年度収蔵した西垣のもう一点の油彩画

 

ところで、前回ご紹介した《愛国機》という油彩画を初めて目にした印象は、違和感でした。それは、松山から上京して不同舎に学んだ画家という目で見たことによるものです。不同舎の小山正太郎らが中心となり立ち上げた団体の明治美術会に対し、フランスで学んだ黒田清輝らが結成した白馬会の洋画家たちが描く絵画が対照的だったことから、旧派と新派、脂派と紫派などと称されたことは知られています。

暗い褐色を主たる色調としたことから脂派といわれたのですが、西垣の作品はむしろといわずまさに白馬会をイメージさせる明るい「外光派」風の作品だったのです。その違和感は、その後、西垣が黒田清輝にも学んだということがわかることである程度納得することにはなりましたが。

それは、おそらく埼玉県師範学校に勤務していた時期と思われますが、新潟に赴任後も新潟市における新派和歌運動の文芸誌『若菜舟』に「伴左」の号で表紙絵や挿絵を寄せており、黒田や同じく白馬会の藤島武二を思わせる挿絵を描いていたことを確認することで納得は深まりました。

 

前回記したように、彼についてはまだ不明な部分が多く、知り得た範囲での紹介になりましたが、いわゆる画家としてではなく図画教員として生きた人だったといってよいでしょう。長年図画教育に携わり、戦前の新潟県展の立ち上げにも尽力するなど、人を育て後押しする存在として評価すべき人物だったように思います。

第1回新潟県展の懇親会(1930年/新潟市内・イタリア軒)

前から2列目左から6人目が西垣維新

※山浦健夫「戦前の新潟県における洋画運動―民間有志が設立運営した新潟県展を中心に―」『近代画説』第25号(明治美術学会、2016年12月)より転載

 

その一方で、「伴左」と号し、新派の和歌運動に関わり、また能面の研究と制作に打ち込み評価を得ていたことからも、教職という公的な立場を離れた私的な領域で、自身の心情にそった表現活動を行っていたと見るべきかもしれません。

これらは断片的な情報をつなぎ合わせた想像の域を出ませんが、終戦を待たず新潟の地で生を終えたかつての図画教員のことを思いめぐらせるのでした。

(館長 澤田佳三)