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学芸ノートB版 2024-3 そこまで難しくはないけれど、理解するのに多少時間のかかる現代美術の話② 「ポップアートって何? あるいは当館所蔵作品のポップアート的遺伝子について」前編

はじめに

ポップアートと言えば、まずアンディ・ウォーホルが頭に浮かぶ人が多いでしょう。他に誰かと考えるとロイ・リキテンスタインとか、ジャスパー・ジョーンズといった作家を思い出す人もいるかもしれませんね。確かにポップアートは1962年にロイ・リキテンスタイン、アンディ・ウォーホルらが、アメリカの消費文化を主題とした作品を次々に制作、発表したことで一躍、有名になった美術思潮ですので、間違いはありません。

しかし、その発祥はアメリカではなく、1950年代のイギリスでした。第2次大戦後の50年代半ばから60年代後半にかけて、当時のイギリス社会は戦後の復興に苦戦し、政治、経済、社会、文化で変動が起きました。特に1956年のスエズ動乱を機に、植民地の独立が相次ぎ、大英帝国の崩壊が進む一方で、その状況に奮起した若者がイギリス史上初めて発言権を得て、アングリー・ヤング・メン(怒れる若者たち)と呼ばれる若年層による、1960年代の特徴となるカウンター・カルチャー(抵抗勢力)が生まれた時代でした。そのためイギリスにおけるポップアートは、若い世代が中心で、きわめてアイロニカルな性格を持っていました。

その点、アメリカのポップアートはアメリカが生み出した、世界に誇るべき最初の美術思潮である抽象表現主義に続く、新世代の美術様式かつ芸術運動とみなされたことで、きわめて肯定的に受け入れられていきます。まさに、アメリカの夢と言っても良いものでした。

 

ポップアート前夜

第2次大戦後の復興に時間を要したイギリスは、大きな社会的な変動が起こり、怒れる若者たち、例えばリチャード・ハミルトン*やアレン・ジョーンズ等によってポップアートが生みだされました。しかし、戦後の復興に苦戦したのはイギリスだけではなく、戦勝国となったヨーロッパの国々もまた同じでした。ましてや、敗戦国となった日本、イタリア、ドイツは、より悲惨な状況にあったと言えるでしょう。

ポップアートは第2次大戦のある意味で唯一の勝者であった、アメリカだからこそ、花開いた美術様式であったとも言えます。当時のアメリカ経済の大部分は大量消費を原動力としていました。そして、その根幹にあるのは常に新しい物への欲望を持たせることです。今、持っている「もの」より、多少新しい機能をもった「もの」を圧倒的な物量で宣伝し、すでに持っているものを古臭く感じさせることで、新しいものを買わせるというシステムです。しかし、このシステムは既に大きなリスクをはらんでいました。例えば、買い替えることによって生じる大量の廃棄物です。自然のサイクルを超えて大量に発生する廃棄物は既に社会問題となっており、これこそが大量消費社会の弊害でもありました。こういう状況をアイロニカルに美術作品として提示したのがロバート・ラウシェンバーグやジャスパー・ジョーンズという作家たちです。彼らは「ネオ・ダダ」と呼ばれ、消費された、いわゆるゴミを集めて作品化する、まさに大量消費社会を批判する作品を発表することで、その問題を顕在化しようと試みたのです。この思想をさらに推し進めて、概念的に継承したのがその次の世代にあたるポップ・アーティストたちでした。

中でも、最も戦略的に行ったのがアンディ・ウォーホルです。彼は当初、身近にあった缶入りスープや箱入り洗剤など、それ自体を主題として作品化します。ここまでは「ネオ・ダダ」の延長に過ぎませんでしたが、やがて、大量消費社会で概念的に消費されてしまうものに目をつけます。それこそがハリウッドスターやアイドル、歌手たちでした。彼らも人気がでると、すぐに似たようなタイプのスターが現れてしまい、やがて、とって代わられていく、まさに消費される存在でもありました。ウォーホルはそんな彼らを主題にすることを考えはじめるのです。自分の好きなスターや歌手たちを、その後に続く、似たようなスターや歌手たちにとって代わられないように特別な存在にすることを。

 

ポップアート誕生

アンディ・ウォーホルはチェコスロバキア(現・スロバキア共和国)の移民の三男として生まれ、早くに父を亡くし、アルバイトをしながら高校を卒業、大学では広告芸術を学び、卒業後はデパートの包装紙などを手掛け、やがて商業デザイナーとして大成功することになります。大量消費社会あっての活躍だったと言えるわけで、アメリカの大量消費システムを否定する気持ちは露ほどありませんでした。アメリカにおけるポップアートの最大の特徴がアイロニカルな視点を持たず、どちらかと言えば、その社会を肯定する立場だった原因はここにあったと言えるかもしれません。大量生産と大量消費により経済を推し進めていく社会構造の中で、没個性で、かつ人々が欲求する最大公約数的な特徴を持った製品を、受容し続けていく日常生活を続けていく限り、その消費されるものを主題に選んだとしても、例えば、キャンベルスープ缶を作品化したところで、それこそが日常の当たり前の風景であり、社会を批判する美術にはなり得ないのです。

しかし、スターや歌手たちだけは別でした。その当時とすれば流行の中にあって、誰もがヒットにあやかろうと似たような映画、似たような音楽ばかりがはやる時代です。そんな没個性の時代の中にあっても、例えばマリリン・モンローや、エルビス・プレスリーと言った自分が大好きな存在は必ずいたはずです。そんな彼らを作品にしてしまうことで、その存在を永遠のものにすることができる、ウォーホルはそのことに気がつくのです。でも1点ものの油彩では高価になるし流通しない。なるべく安価に大勢の人が手にとれるようにしよう。そこでウォーホルはシルクスクリーンで作品を量産するようにしました(ウォーホルが自身の制作場所をアトリエと呼ばずファクトリーと呼んだのはここに起因します)。これなら、マリリン・モンローやプレスリーが好きな人は買うだろうし、やがて彼らに興味がなくなる時がきても、一応は美術作品なので、ブロマイドと違って捨て去られることはないだろうと。ウォーホルの目論見は見事成功したと言って良いでしょう。結果として、マリリン・モンローもエルビス・プレスリーも、作品化されることで、現在も彼らが生きていた頃の栄光そのままに、彼らの残した映画や音楽以上に、その存在はハリウッドスターやロックスターのイコンとしての存在となり得ています。以前、私はある大学の講義の中で学生にマリリン・モンローについて聞いたことがあります。その教室にいた約8割の学生はマリリン・モンローの存在を知っていましたが、その中の誰もが彼女の出演した映画を観てはいませんでした。その存在はほぼウォーホルの作品によってもたらされたものだったのです。日常的なものを作品化して、それらに永遠の命を与える行為、それこそがポップアートの果たした意義だったかもしれません。その意味では愛に満ちた美術でもあったと言えるでしょう。

しかし、それが可能だったのは、唯一の戦勝国であり、かつ現代美術が一大マーケットとなっていたアメリカだったからなのかもしれません。

 

新潟県立万代島美術館・館長 藤田裕彦

 

* リチャード・ハミルトンは1956年のグループ展後にポップアートの特徴として(Popular/designed for mass audience/Transient/Expendable/Low Cost/Mass Produced/Young/Witty/Sexy/Gimmicky/Gramorous/Big Business)の11の特徴を列挙しているが、これからもアイロニカルに捉えていることがわかる