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学芸ノートB版 2024-9 岡田竹弘斎を知っていますか?③ 新潟県立近代美術館「皇室の名宝と新潟」に寄せて

岡田竹弘斎 新潟に行く

岡田竹弘斎の活躍と時同じくして、皇太子殿下(昭和天皇)が佐渡に寄港するとの知らせが入り、当時の新潟県知事が事前調査に佐渡を訪れたところ、竹弘斎の作品に遭遇、その出来に感銘を受けます。これは良い人物を発見したと、新潟県の産業発展のために岡田を新潟市に招聘しようとしますが、岡田はそれを固辞してしまいます。本人の弁によれば「一身の出世は判るも、苦痛の折り、助力して頂き今日の評判と名声を得た事は偏 (ひとえ)に佐渡の地元の方々の御蔭。身の栄達のための新潟行きは人間として出来ざる事」という、至ってシンプルな理由からでした。その後、皇太子殿下は予定通りに佐渡に御立寄りになり、竹弘斎の手による竹籠に蛍千匹を入れた蛍籠を献上しました。蛍籠は評判を呼び、今度は竹弘斎ではなく、茅原氏のもとへ竹弘斎の招聘要請の手紙、言わば、竹弘斎を説得して欲しいという依頼が届きます。今度は恩人である茅原氏からの依頼となったわけで、竹弘斎は佐渡に居住したまま、新潟県内の竹細工講習会開催地へ出張するという妥協案を提示し、大正5年1月新潟県知事の委嘱として新潟県竹細工講師嘱託となりました。

この頃になると、さすがに竹弘斎だけでは人が足りず、17人の弟子がいましたので、糸魚川、高田、十日町、粟島など、至る所で講習会を実施することができました。その結果、県外からも新潟県に竹弘斎への派遣依頼が殺到、佐渡居住では対応できないことから、とうとう竹弘斎の後援会にも竹弘斎を新潟市へとの話がきました。後援会の中でも意見が割れ、竹弘斎自身も「如何に世上の評判で招かるるとも人の道は捨てがたく」と断ったものの、最終的には後援会の会長だった川辺氏より「佐渡を離れても佐渡の竹のために努力してくれ、これがおれの願いだ」という言葉に突き動かされ、恩ある佐渡を離れることを決心しました。

岡田は弟子とともに新潟市に移ると、竹工芸指導だけではなく、新潟県山林会全国大会の記念品3000個を制作するなど八面六臂の活躍で、県産竹をアピールし続けました。以降、富山県、三重県、長野県、鹿児島県、青森県、北海道で竹工芸指導をしながらも、自分一人では指導の手が足りないことから、県議会に新潟県竹細工教師養成所設立を提案し、大正11年5月には承認され自ら所長を務めました。さらに大正末、数えで30歳の頃、竹弘斎の念願であった、新潟の竹芸品を常陳で販売する自身の名前を冠にした店を東京日本橋小伝馬町に設け、長きに渡り販売を行っていたようです。その当時、そのお店を訪ねた人は「店には美術竹工品の数々、花籠、衣装籠、手文庫、それに花筒、短冊掛、柱掛、その他の製品がところせまきまで陳列されてある。岡田の苦心の結晶」*と述べています。

竹弘斎にとっては、川辺氏からの「佐渡を離れても佐渡の竹のために努力してくれ」という言葉と、父の「東京の日本橋通りに店を持つ様になれば、成功だと昔から言われている。竹細工専門で東京日本橋通りに店を持った者は未だ無い。此の位にならねば成功とは言われん」という言葉が重要だったのだと思います。その実現のためには自身の作家としての評価などどうでも良かった。むしろ、考えてもいなかったと言い換えてもよいのかもしれません。岡田にとって、展覧会に発表する意味とは、県産竹の品質の良さをアピールすることと同義でした。何度も農商務省工芸展覧会や万国博覧会で受賞を果たしながらも、昭和2年に初めて工芸部門が設立された第8回帝展に出品しなかったのも、既に佐渡の竹を使用した竹工芸の専門店を日本橋に作り、広く紹介するという目標を達成していたからと考えれば腑に落ちるのです。

岡田竹弘斎の自叙伝『竹に生きる七十年』(昭和46年)の中では、前述の新潟県竹細工教師養成所の受講生の中には帝展や日展に何度も連続入賞した生徒や、各地で教師や講師を務めている者、他府県で指導にあたっている者も多いこと、そして、新潟県の竹製品が発展とともに各地で開催される博覧会などへの出品率も高くなったことを、どこか誇らしげに伝えています。

岡田竹弘斎が竹工芸作家として発表していたのは5~6年に過ぎません。そして、作家として最も活躍できる30代には作家活動をやめてしまっています。そのため、工芸作家としての岡田竹弘斎を調べようとしても、現在ではあまり資料も残っていないようです。とは言え、その後、新潟県内から多くの竹工芸作家が輩出したことを考えると、岡田竹弘斎の功績をあらためて評価すると同時に、その能力を一瞬で認めた佐渡出身の茅原治六氏との偶然の出会いが、いかに幸運なものであったのかと考えざるを得ません。

おわりに

最後に本展の出品作《手付花籠》(大正13)についてひとこと。本作は大正13年11月に皇太子殿下(昭和天皇)が北陸地方行啓に際して、新潟県からも献上の品をということで、新潟県知事の信用も厚かった竹弘斎に依頼があり制作されたものです。当時、指導者として圧倒的な技術を誇った作者の手による貴重な作品ながら、前述の通り、作家としてはあまり知られていないために展示されることの少ない作品です。この機会に是非、ご覧ください。ほかにも伊藤若冲の国宝、曽我蕭白の重要文化財、佐渡出身の人間国宝、佐々木象堂の作品など傑作目白押しです。

展覧会は新潟県立近代美術館にて(万代島美術館ではありませんよ。万代島美術館では2024年に亡くなられた詩人・谷川俊太郎の絵本作品を紹介する「谷川俊太郎 絵本★百貨展」を絶賛好評開催中です)3月16日(日)までです。

(新潟県立万代島美術館・館長 藤田裕彦)

*竹内叔雄『竹の本』昭森社(1942年) pp152-153

 

  (左)国宝 伊藤若冲《動植綵絵 老松鸚鵡図》江戸時代

                     (右)佐々木象堂《瑞鳥置物》1958年 いずれも三の丸尚蔵館収蔵

 谷川俊太郎 絵本★百貨展 2025.1.18-4.6